ナポレオンの戦いの軌跡 ~第一次イタリア遠征~ |
イタリア派遣軍司令官に任命された27歳のナポレオンは、1796年3月27日、イタリアに向かう途中、ニースでこのように兵士に向けて檄を飛ばした。敵は、兵力2万のサルディニア軍と兵力4万を超すオーストリア軍であった。フランス軍は兵力が4万弱、軍服、軍靴だけでなく、弾薬も糧食も欠く貧相な軍であった。 ナポレオンはのちにセント・ヘレナでイタリア遠征について、モンテノッチの会戦に始まり、ロディの会戦、カスティリョネの会戦、アルコレの会戦、リヴォリの会戦、そしてタグリアメント河の渡河に至る数々の戦いを詳細に語っている。ナポレオンの名声を高めた忘れがたい戦いであった。 モンテノッテはジェノヴァの西に位置する小さな町である。 「共和国軍はオーストリア軍を粉砕した。敵の死傷者は約3千人」 4月12日、ナポレオンはモンテノッテで敵軍を撃退し、戦勝の第一報を政府にこのように伝えた。この戦いをはじめとして、のちに「アルプスに穴が開いた」と語っているように、ミシレモ、オーストリア・サルディニア連合軍を撃破してアルプス越えを遂げた。
敵軍は大砲20門を失い、3千人以上の死傷者を出して退却した、と政府に報告している。この報告には誇張があり、実際には双方がそれぞれ2千人の死傷者を出したという。 この会戦の勝利によって、司令官ボナパルテ(ナポレオン)は将兵に絶対的権威を持つようになった。「ちび伍長」という愛称が広まったのもこの時からであった。 5月15日、18世紀初めからオーストリアの支配下にあった北イタリアの中心都市ミラノを占領。その後の政府への報告でも、敵軍粉砕、共和国軍進撃のニュースが続く。3月に結婚したばかりの妻ジョセフィーヌにも戦況を知らせている。 「適は総退却しました。わが方は死傷者200人、敵は500人。私は元気です。しかし、あなたの側にいる時しか喜びも幸せもありません」 8月以降戦況が変わった。オーストリア軍は8月にドイツでフランス軍を撃退すると、余力を得て主力部隊を北イタリアに送ってナポレオン軍を脅かすようになった。11月6日、ナポレオンはバサノで敗北。 「第39部隊と第85部隊の兵士諸君、諸君は兵士ではない」 ナポレオンは声明文を出して憤りを露わにした。翌日、ヴォブワ将軍の率いる師団がカルディエロで敗北。「わが軍は、大砲6門のほか、死傷者、捕虜あわせて3千人を失った」と政府に報告している。 だがその1週間後、ナポレオンはオーストリア軍とアルコレで戦い、これを撃退した。オーストリア軍は二軍に分けるという戦略の過ちを犯した。ナポレオンは兵力1万7千を、兵力2万8千を擁したアルヴィンツイ将軍の軍に集中して攻撃した。アルコレ橋で血みどろの興亡が続いた。ナポレオンは降り注ぐ銃弾と砲弾のなかを、軍旗を手に精鋭兵士を連れ、喊声を上げて突撃した。オーストリア軍は3日間の戦いに疲れ、17日、兵力6千を失って退却した。
そして2月10日、オーストリア軍最後の拠点モントヴァを攻略した。 「今日、オーストリア軍は町から完全に撤退した」同日、アンコナの占領も報告している。「わが軍はアンコナで教皇軍1200人を捕虜にした」教皇は、ナポレオンの勢威に屈して、同月19日、トレンティノで講和条約に調印した。 3月10日、ナポレオンは兵士に向けて声明を発表し、これまで14の会戦と、70の戦闘で勝利し、モントヴァ占領をもってイタリア遠征を終えたことを告げるとともに、「諸君には偉大な運命が遺されている」と述べて、オーストリアへの進撃を呼びかけた。フランス軍は大挙北上し、ウィーンに迫った。 ところがナポレオンは急遽、進撃を中止した。4月7日、オーストリアと停戦協定調印。「講和の時期が来ていると考える。私がどのような解決策を取ろうとも、政府の承認が得られるものと期待している」 ナポレオンは、翌日政府にこのように協定調印の承認を求めた。これまたナポレオンの独断によるものであった。そして10月17日、ヴェネチアの北東、ダグリアメント河の東に位置するイタリアの寒村カンポ・フォルミオで講和条約が両国の間で調印された。 |