ナポレオンの戦いの軌跡
~トゥーロン要塞攻略戦~
 

 反乱制圧に加わる
1793年はフランス革命の危機の年であった。国内は内乱と化し、外国軍が各地で攻勢にたった。
1月、国王ルイ16世を死刑にした後、国民公会は2月にイギリスとオランダに、3月にはスペインに宣戦布告した。三国はイギリスを中心に対フランス同盟を結成して、フランスに対抗した。
これに呼応して西のヴァンデ地方では、王党派と農民が反革命をスローガンに掲げて蜂起した。6月には連邦主義者が南フランスを中心に反乱を起こした。7月、パリでは山岳派の指導者マラーが王党派の女性に暗殺され、リヨンでは山岳派のシャリエが処刑された。
ナポレオンは6月、コルシカを脱出して本土に戻るとすぐに軍に復帰し、反乱制圧軍に加わった。共和国軍は8月末にマルセイユ、10月半ばにはリヨンを制圧し、王党派・連邦主義者の拠点のトゥーロンを残すのみとなった。トゥーロンには8月末にイギリス軍が入り、反乱勢力が市政を掌握し、ジャコバン派が弾圧されていた。
トゥーロンは、南が海に面して港を有し、三方を堅固な城壁で囲まれ、湿気の多い、昼でも薄暗い中に3万を超す人口を抱えていた。海軍工廠や兵営を持ったフランスの代表的な軍港であった。
 ナポレオンの案が採用される
9月初め、共和国軍は攻撃にかかった。作戦は、バラス、ロベスピエール弟、サリセッティなど山岳派国民公会議員を中心にたてられた。コルシカ選出のサリセッティはナポレオンを砲兵隊長に命じた。
トゥーロン攻略について、ナポレオンはのちに「私のおかげである」と誇りにし、バラスは真の征服者はデュゴミエ将軍以外の誰でもない、と述べて将軍の功績を称えているが、ナポレオンが決定的役割を果たしたのは間違いない。
「同志大臣、私が将軍と人民代表に示したトゥーロン攻撃作戦計画は、実現可能な唯一のものと信じます。この計画がもう少し熱意をもって実行されていたならば、我々は現在トゥーロンのなかにいることでしょう」と、ナポレオンは11月14日付の書簡で、戦争大臣にこのように書いている。
この作戦計画の特色は、イギリス軍を港の船舶停泊場から追い出す事。そのためにはまずプティ=ジブラルタル要塞を占領、次いで港入口の西側に位置し、港を見下ろすエギエット岬の要塞を占領することにあった。
またその作戦において、ナポレオンの指揮する砲兵部隊が攻撃の主力とされた。11月25日、デュゴミエ将軍はナポレオンの作戦計画を採用した。
 名声はトゥ-ロンから始まった
12月11日、作戦行動開始。14日、砲撃開始。17日朝5時、風雨をつき、プティ=ジブラルタルを襲撃して占領、さらにエギエット岬を占領。
ナポレオンはこの両要塞に砲台を設け、大砲十二門でもって、港の船舶停泊場を砲撃。強風にさえぎられて船舶は出港できず、港は大混乱をきたした。この日、共和国軍の死傷者は1000人。
同18日、イギリス・スペイン艦隊が脱出。夕方、工廠弾薬庫に砲弾が炸裂して大爆発、港の停泊場は炎に包まれた。夜、共和国軍の狙撃兵や斥候がトゥ-ロンに侵入。この日の戦闘についてバラスは「トゥ-ロンを全面攻撃、血みどろの戦いであった」と記している。
19日、共和国軍入城。全財産を没収し、将兵の賞与として分与した。両日でトゥーロンを逃れたものは1万4000人にも及んだ。翌日、監獄は逮捕者で溢れ、マルシェ広場にはギロチンが設置された。処刑者は1000人を超えた。
12月22日、ナポレオンはトゥーロン攻略の手柄によって、師団長に昇進した。さらに、翌年2月、イタリア方面軍砲兵隊司令官に昇進。24歳にして将軍となった。
「ナポレオンの名声はトゥーロンの攻囲に始まった」と、ナポレオンはのちにセント・ヘレナで語っている。




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