隅田川の橋の歴史
 2、千住大橋


創架 大正14年(1925)5月
形式 鋼リゾットリブダイドアーチ
   長さ92.5ⅿ、幅24.2ⅿ、鋼材重量 中央1549tf
北国からの交通の便を考え、隅田川最初の橋として架けられ、創架は文禄3年(1594)9月である。それ以前は現在の白髭橋付近にあった橋場の渡しが房総・常陸・陸奥への街道になっていたが、千住大橋が完成してからはここに街道が移った。当時は家康が伊奈備中守忠次に命じて、文禄2年から3年にかけて工事を行った。伝によると、伊達政宗が資財を提供し、その杭には耐腐食性に優れた犬槙を使用したと言われ、そのためなのかどうか不明だが、創架から53年経過した正保4年(1647)まで架け替えがなく、普通の木橋の平均寿命は20年よりかなり長持ちした事になる。
右岸、橋の袂には永承5年(1050)摠見の古い熊野神社があるが、大橋の建設に先立ち伊奈忠次はここに無事工事が成就することを祈願し、大橋完成後、残材で神社の社殿の修理を行った。その後、大橋の架け替え毎に祈願、修理をするならわしとなった。
                     
創架当時、大橋または小塚原橋と呼ばれていたが、領国橋が完成してから千住大橋と呼ばれるようになった。慶長2年(1597)に千住宿が人馬継立橋として制定され、やがて千住宿とし、江戸四宿の一つとして繁栄した。旅館・商家が立ち並び、飯盛女を置くことも許された。千住宿は寛永2年(1625)の日光東照宮の大造営にともなって日光道の初宿にも指定され、さらに参勤交代制度の確立によって往来の人馬が増え、宿場として大いに発展した。
現在の橋は、大正14年5月に着工し、昭和2年(1927)11月に完成したものである。その後、交通量の増大に対処するため、昭和48年に脇に並行して橋が架けられ、上下別々に役割を分担している。




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