戦国時代の忍び
 ~伊賀惣国一揆~
 


 伊賀と甲賀
伊賀・甲賀は、忍者の聖地として知られているが、何故伊賀・甲賀の忍びが有名になったのだろうか。伊賀・甲賀は京都から適度に離れ、周囲を山に囲まれた地であるため、しばしば京都から落ちのびてきた有力者が隠れ住んだほか、街道を通じて都の情報を得るのには便利な一方、伊賀・甲賀の情報が外に漏れることは少なかったといえる。また、土豪的には自治を行って兵力を有し、山中で身体の鍛錬をする事も可能であった。
伊賀・甲賀は現在の三重県・滋賀県に分かれているが、甲伊一国と呼ばれた一体の土地で、婚姻関係も密接であった。また、双方とも大名の力が弱く、その代わりに国人・土豪の力が強く、多くの砦や館を築いて、「伊賀惣国一揆」「甲賀郡中惣」と言った自治組織を形成し、掟を作って連帯していた。伊賀では、有力土豪が近隣の侍衆を擬制的な血縁関係である同名中として組織し、その惣領家同士が三方中とか諸侍中という地域連合を形成した。そしてその郷規模の地域連合がさらに結び付き、伊賀惣国一揆を成した。
  惣国一揆の掟息子
永禄12年(1569)11月に伊賀惣国一揆掟書というものが出され、惣国一揆の在りようを示している。その条文は。下記の通り。(現代語訳します)
一、他国の勢力が伊賀国に侵入した場合には、惣国が一味同心して防がなければならない。
一、国の者共が警備している時に、国境の方から緊急事態を注進してきた際は、里々で鐘を鳴らし、上は50歳、下は17歳までの男はすぐ兵糧・武具を持って所定の位置に付き、国境が破られないように陣を張り、期間が長くなるようなら交代で警備に当たれとしている。そして、各所で武者大将を指定し、他の人々はその命令に従うように、老僧は国が豊穣となるための祈祷をし、若い者たちは参陣するように。
一、国境で他国が城を構えたとき、足軽としてその城を取って忠節を果たした百姓には褒美を取らせ、侍身分にする。
また、下記の条文では。
一、伊賀惣国一揆と甲賀郡中惣との協力による伊賀国防衛をする
としている。この時の状況は、六角承禎・義治父子は織田信長の上洛を近江観音寺城で阻もうとしたが敗走して北伊賀に逃亡してきており、さらに伊勢国では北畠氏が降伏し、周辺は信長によって征服されるという緊迫状況にあり、来るべき織田軍との軍事衝突に備える必要があった。伊賀と甲賀は隣接した地であり、基本的には同盟関係にあったが、常に一体となって行動したわけではなく、天正初年に甲賀郡中惣が伊賀惣国に対して警戒しているように、一定の距離を保っていた。
数多くの城塞息子
伊賀地域には山城から平地居館まで、中世城郭が合わせて619カ所確認されており、全国一の分布密度とされる。それぞれの規模はまちまちであり、居住者の地位を反映していると考えられるが、地形を利用して築かれていることが確認できる。この地域の特徴として、単郭方形四方土塁と呼ばれる屋敷の周囲を土塁と囲んで防御性を高めた構造となっていることが注目される。戦国時代には、烽火台が設置されている。伊賀国一宮の敢国神社東南に聳える標高350ⅿの南宮山山頂に一基、その南の標高403ⅿの大峯山烽火台が確認でき、そこを拠点として北伊賀・南伊賀に危急を告げるネットワークが構築されていたと考えられる。忍術書には烽火について詳細な記述がある事から、伊賀衆による烽火の技術が忍びに受け継がれていったといえよう。




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