戦国時代の忍び ~伊賀惣国一揆~ |
伊賀・甲賀は現在の三重県・滋賀県に分かれているが、甲伊一国と呼ばれた一体の土地で、婚姻関係も密接であった。また、双方とも大名の力が弱く、その代わりに国人・土豪の力が強く、多くの砦や館を築いて、「伊賀惣国一揆」「甲賀郡中惣」と言った自治組織を形成し、掟を作って連帯していた。伊賀では、有力土豪が近隣の侍衆を擬制的な血縁関係である同名中として組織し、その惣領家同士が三方中とか諸侍中という地域連合を形成した。そしてその郷規模の地域連合がさらに結び付き、伊賀惣国一揆を成した。
一、他国の勢力が伊賀国に侵入した場合には、惣国が一味同心して防がなければならない。 一、国の者共が警備している時に、国境の方から緊急事態を注進してきた際は、里々で鐘を鳴らし、上は50歳、下は17歳までの男はすぐ兵糧・武具を持って所定の位置に付き、国境が破られないように陣を張り、期間が長くなるようなら交代で警備に当たれとしている。そして、各所で武者大将を指定し、他の人々はその命令に従うように、老僧は国が豊穣となるための祈祷をし、若い者たちは参陣するように。 一、国境で他国が城を構えたとき、足軽としてその城を取って忠節を果たした百姓には褒美を取らせ、侍身分にする。 また、下記の条文では。 一、伊賀惣国一揆と甲賀郡中惣との協力による伊賀国防衛をする としている。この時の状況は、六角承禎・義治父子は織田信長の上洛を近江観音寺城で阻もうとしたが敗走して北伊賀に逃亡してきており、さらに伊勢国では北畠氏が降伏し、周辺は信長によって征服されるという緊迫状況にあり、来るべき織田軍との軍事衝突に備える必要があった。伊賀と甲賀は隣接した地であり、基本的には同盟関係にあったが、常に一体となって行動したわけではなく、天正初年に甲賀郡中惣が伊賀惣国に対して警戒しているように、一定の距離を保っていた。
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