戦国時代の忍び
 ~悪党~
 


 「峯相記の」悪党
悪党の具体的な姿については、鎌倉・南北朝期の播磨国の地誌である、「峰相記」に詳しく記されている。
正安・乾元の頃(1299~1303)、異類異形の様相で所々の乱暴、浦々の海賊、寄取、強盗、三賊、追落などを行い、柿色の着衣に女物の六方笠を着け、人に顔を合わせず、目立たないようにして、柄・鞘のはげた太刀や杖等を持ち、鎧・腹巻などの兵具は持たない人々が10人20人、城に籠ったり、攻撃に加わったり、敵を引き入れ裏切ったりして、約束などはものともしない。そして、博打・博奕を好み、忍び小盗を業としているとしている。
それがさらに正中・嘉暦のころ(1324~29)になるとその振舞が目立ってきて、世間を驚かせるようになった。立派な馬に乗りつらなり、五十騎百騎と続き、兵具には金銀をちりばめ、鎧・腹巻は、光輝くばかりである。所々を横領し、徒党を組んで契約し、城を落としたり、城を構えたりする。かねてからの賄賂を「山コシ」と称し、後日の嘱託を「契約」と呼んで、人目をはばかり恥じ恐れる様子は全くないと書かれている。
これらの悪党は、反対給付として報奨が与えられ、傭兵として活動している存在で、中には城郭を構える者さえあった。そして、南北朝期には、異形の体をなして鎧・武具で武装し、各地の合戦に参加しゲリラ戦を展開した。楠木正成に率いられて山中で敵を苦しめた輩はまさにこのような存在であった。
こうした悪党の姿は、一見山伏の姿と似通っているが、「沙石集」という所で栄朝上人が、本来の山伏は山へ入って厳しい修行をし、疑死再生することで超人的能力を有することができると考えられていたが、異類異形をして刈りや漁もし、合戦や殺戮することも憚らない存在と記されており、修行者という姿からかけ離れ、悪党化している様子がうかがえる。山から山へと移ることによって獣道を熟知し、武器も携えて呪術を駆使する山伏が、悪党化して荘民と連携することは不思議ではない。
  黒田荘と悪党息子
伊賀地域の東大寺領黒田荘の悪党は、中世史研究者から注目された日本で最も有名な悪党である。黒田荘荘官であった大江氏は、一般荘民も巻き込んで本所である東大寺に抵抗し、弘安の頃には大江清定が北伊賀の服部康直・清直らと連携して、年貢公事の差し押さえ、三賊・放火・殺害・路地の切塞ぎ、城郭を構えるなどの行為をしたことにより「悪党」と呼ばれた。
永治2年(1142)5月日黄瀧寺西蓮勧進状案によると、承保年中(1074~77)金剛仏子正縁聖人が不動明王の正躰を見たいと、金峯山・熊野山・長谷寺に祈願して3年間修業を積んでいたところ、熊野三所権現の二童子が現れて、不動明王に会える地として、伊賀国名張郡の南端の地である黄生滝を示し、その地を行ってみると七金山という役行者行道の跡を発見したという。さらに河内国八神郡の延増は千日参籠して寺を建立し、五代明王を造立したという。この地は現在の名張市赤目四十八滝で、黄龍山延寿院がその由緒を語っている。
さらに、寛治6年(1092)4月25日官宣旨では、金峯山の先達法師原が数多の従類を率いて黒田荘内に出没して暴行を働いていることから、早くも院政期には山伏たちが悪党化していたことがわかる。そして大江氏はこうした山伏たちと密接な関係を持っていたようである。忍びが様々な情報を有し、薬草・呪術などの知識に長けていたのは、山伏からの影響が大きかったからであろう。




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