戦国時代の忍び ~太平記の忍び~ |
さてまた、京都をさしおかば、北国の敵に間を伺はれつべし、いかがはせんと、進退きわまって覚えkれば、ある夜の雨風のまぎれに、逸物の忍びを八幡山に入れて、神殿に火をぞかけたる。 足利軍が、男山の城を攻め落とすことができずにいたところ、新田義貞の弟の脇屋義助が叡山勢と上京するということを高師直が聞き、建武5年(1338)7月5日、突如男山を攻め落とすことになった。その時の記述に、普通に入り込めないところに夜の雨風の音に紛れて、特に秀でた忍びの者が密かに忍び込み、石清水八幡宮の社殿に火をかけて大混乱に陥れたことを記している。こうしたことから、南北朝期には忍びと呼ばれる職能の者が存在していたことがわかる。 巻二十四「三宅萩野謀反の事」でも忍びの存在が語られる。備前国児島の三宅高徳が、脇屋義助死去の後、子息義治を招いて挙兵しようと丹波国荻野朝忠と計画していたが、所司代都築入道にこのことが漏れて、四条壬生にあった忍びの隠れ家が襲われる。夜討ちの手引きをするために忍びが用意されていたが、彼らは急襲された為抵抗し、最後は腹を切って自害を遂げた。そのような者たちは「死生知らずの者」であった。この記述に関しては、関連記事が「師守記」康永3年(1344)4月4日条にあり、伝聞として五條坊門壬生で怨敵を召し取り、首を東寺四塚に懸けたことが記されていることから事実であったことがわかる。
この記述からは、南北朝時代の戦闘では様々に紛れ込んで謀略を果たす戦闘が行われていたことがわかる。こうした方法に優れた人物が特化して忍びとなっていったのではないか。南北朝時代に悪党を動員して山地を利用した戦闘が行われ、その際に必要が高まって諜報活動に加えて攪乱・戦闘を行う忍びが結成されていったのだろう。 そしてそうした忍びは、悪党の中から生み出されたと考えられる。悪党という言葉は8世紀初頭から見られるが、鎌倉中期になると、貨幣経済発達のもと、支配を強化しようとする本所と経営権を確立しようとする在地の荘官層とが対立し、そこへ異類異形の傭兵集団も入り込み、傭兵自体はすでに9~10世紀頃から律令国家の軍隊の中に存在しており、村の紛争解決にそうした集団が利用されたことが指摘されている。 |