戦国大名の概念
~「御国」観念の成立~
 

 「国境」の概念の成立
戦国大名が包括的にその領内の争いを終結させ、領内に平和をもたらした結果、戦国時代における戦争は領域権力同士、すなわち「国家」同士のものに基本的に限定されるものとなった。そして戦国大名同士の領国の境目では、互いに通行が規制された。領国の境目に設置された関所などで、人と物との通行について規制が行われた。そうした事態は、さながら現代における出入国管理に当たるといえ、領国の出入りは決して自由ではなく、そこでは大名における規制が行われていたのである。ここに、国境の形成を見ることができる。
こうした事態は、戦国大名という政治権力が、領域権力として存在したことによって生み出されたものだった。それ以前の政治権力には、そのような事は行われていなかった。日本列島の歴史上において、初めて現代に通じるような国境という観念が誕生したことになる。その結果、領国の内部に居住する人々は、その大名の領国の住人という観念が生み出されていくことになるのだろう。
さらに戦国時代の後半期になると、領国が数か国規模に渡るような大規模戦国大名同士の戦争が展開されていくようになる。それは戦国大名が、滅亡を覚悟するような深刻な危機感を生み出していった。そのなかで、例えば北条氏などでは、永禄12年(1569)から武田氏との戦争の中で、村々に対し、奉公すべき対象として「御国」をあげるようになり、「御国」のためになることは、村自身の為でもある、あるいはそうした奉公は「領国」にいる者の務めである、と言った主張をするようになる。
 「御国」の論理
「御国」という言葉は、人々の生活領域にあたる「くに」と、戦国大名の領国とを、一体のものとして表現しようとしたものと考えられる。「御国」の為に、という言葉は、「くに」の平和を維持する行為が、同時に、領国、国家、即ち戦国大名家を維持する行為となることを示すものである。逆に言えば、戦国大名家を維持するための行為を、「くに」の平和維持に繋がるものとして示そうとするものであった。その具体的内容は、臨時の普請役の賦課、村に対する徴兵であった。即ち戦国大名は、自己の滅亡が予想されるような非常事態にあって、領国内の村人を、その防衛戦争に動員するようになってきたのである。
そのための村に対しての説得の論理とされたのが、「御国」の論理であり、その登場は、戦国大名が村の平和を維持しているのは、自己のおかげによるものとする認識を生み出していたことによっている。それは具体的には、外部勢力との戦争に対処して領国の平和を維持していたこと、あるいは隣接村落との紛争をはじめとした、様々な紛争において、平和解決をもたらしていたことによっていた、と考えられる。さらには納税者としての村の村立を維持するために、飢餓や戦争災害に対して様々な対策を取って、村の安定的存続である「村の成り立ち」の維持が図られていた。
「御国」の論理は、このように戦国大名が「村の成り立ち」について、一定程度担っているという自覚を持つことによって、はじめて登場する事ができた論理と言える。それは同時に、村が程度の差や認識の差などはあっただろうが、平和の確保や「成り立ち」の維持において、一定程度、戦国大名に依存していたことの反映とみることができる。実際に、村の側にも、最も安全なのは戦国本拠の城下町であり、最も危険なのは紛争地域に当たる領国境目である、とする認識が生まれるようになっていた。
 村が戦国大名を認識する
したがってこうした状況は、戦国大名の存立と領国内の「村の成り立ち」が一体化した関係の表現と理解されるであろう。逆に戦国大名は、村がそうした領国防衛のための負担を拒否すると、「嫌ならば、当方をまかしさるべきにてすみ候」と、嫌ならばこの領国から退去すればよいと、領国からの追放さえ表明するようになっている。それはあたかも、日本の戦前における「非国民」扱い、あるいは国民を辞めて難民になれ、というようなものである。
このようにして村は、自らの帰属すべき政治領域として、戦国大名を認識するようになった。この事も列島史上においてはじめての事態となる。社会主体であった村は、それを含む領国と否応なしに、運命共同体的な立場を取らされるようになったのである。それを拒否すれば領国から追放を受けることになるが、村という組織によって生産活動を展開しているのだから、それは社会主体としての立場を捨てるに等しく、当時においてそれは事実上、死ぬこと、もしくは他者への隷属を意味することになった。
こうした戦国大名と村の関係は、現代の我々が認識する国民国家と国民との関係に相似するところがある。この事から戦国大名の国家は、いわば現在に連なる領域国家の起源にあたる、ということができる。




TOPページへ BACKします