戦国大名の概念
~「家中」と「村」~
 

 「給人も百姓も成り立ち候様に」
戦国大名の権力構造を端的に表現すれば、支配基盤としての「村」と、権力基盤としての「家中」の存在に特質付けられていたということができる。そうするとその構造とは、領国支配を主導し、「家中」に対し主人として存在する大名家当主とそれを支える執行部、それらの指揮を受け奉公する「家中」、両者からの支配を受ける「村」の、三者関係として認識することができる。したがって戦国大名は、「家中」と「村」が存続してはじめて存立することができる構造にあったといえる。そのことは当の戦国大名も認識しており、それを最も的確に表現しているのが、羽柴秀吉の「給人も百姓も成り立ち候様に」という言葉である。これはすでに天下人になった段階でのものだが、生国であった尾張国の復興策に取り組むにあたってその方針を示した中での発言であり、「給人(家来)」も「百姓(村)」もともに「成り立ち(存続)」できるようにすることを掲げている。
戦国大名と言う権力体が存立するためには、軍事・行政の実務を行う家来と、納税する村の両方が、それらの負担が可能な程度に存続していることが前提になっていたのである。したがってここから、大名が支配下の村に対して、一方的、容赦のない収奪を行うなどという事は、ありえないことがわかる。そのような事をして村々を潰すことになったなら、自らの存立そのものを危機に陥れることになったからである。
 支配基盤の「村」
まず戦国大名の支配基盤は、政治団体としての「村」にあった。村が当時における社会の主体であり、大名への納税主体であったことによる。村は一定領域を占有し、そこから得られる、用水や燃料などの資源をもとに、生産・生活を行っていた。ときに、それらの生産資源を巡って、隣接する村との間で、武力を用いて激しい紛争をすることもあり、まさに「政治団体」として存在していた。その村の構成員が百姓であった。かつては大名は個々の百姓家を支配していたと捉えられてきたが、村こそが当時における社会主体であり、百姓家は個々に存在しているのではなく、村に所属することで存在することができた。こうしたことから、戦国大名の支配基盤は、個々の百姓家ではなく、それらを構成員とした政治団体である村であった、ととらえるのである。
とりわけ村との関係で特筆すべきは、村による戦争費用の負担である。戦国時代における戦争の恒常化、それに伴う城郭の恒常的存在の為、城郭の築造・修築の為の普請役、戦時における物資輸送の為の人夫役が恒常化していた。そうした負担は、領国下の村に課された。逆に言えばそれらの負担を受け容れた村々の集合体が、その大名の領国として存在したことになる。そしてそれらの村々自体が、村領域という形で領域的に存在していたから、その集合体としての領国も、領域的に展開するという関係にあった。
 権力基盤の「家中」
次に戦国大名の権力基盤は、家来の集合体としての「家中」という組織にあった。家来は、いわゆる従者・家臣にあたり、その集合体である事から、「家中」とは一般的にいう「家臣団」にあたっているといってよいが、当時の用語としては「家中」や「洞(うつろ)」等と称された。「家中」という用語そのものは、家来組織を指すものに過ぎず、室町時代にもあったが、その性格が変わるのである。室町時代までは、所領の村同士の紛争から領主間戦争が展開していたが、戦国時代に入って、戦争の恒常化のさなか、家中構成員が自力解決を自己規制し、自分たちを超越するものとしての、主家である大名家を創りだして、これにすべての判断を委ねることで、互いの存立を図る構造が構築された。こうした状況は、15世紀末頃から明確に確認できるようになっている。
これによって家来は、自らの存立にかかわる問題であっても、それまでのように独自に解決を図る事ができず、すべて主家である大名家の判断に委ねるものとなった。自らの存立にかかわる問題というのは、大抵は所領としている村が引き起こす、隣接している村との生産資源を巡る紛争に由来したものだった。家来は、領主という税金を徴収する立場を維持するため、所領の村が引き起こした紛争に際して、それへの支援が求められた。そのようにして村同士の紛争は、互いの領主同士の戦争へと容易に転化していった。
しかし、大名が対外的な戦争を行う上で、家来同士の構想が行われていると、大名の戦争そのものが行えなくなる。それは家来の存立にとっても好ましくなかった。そのため家来同士の自力解決の自己規制が展開されたと考えられる。しかしそれは、家来にとって、領主としての自力救済の放棄を意味した。家来同士の抗争を禁止するという在り方は、今川氏の「今川仮名目録」や武田氏の「甲州法度之次第」にみられるように、やがて家来同士の私戦そのものを制裁の対象にした喧嘩両成敗の制定へと展開していくことになる。
こうして戦国大名の家中を単位に、個別領主層同士の戦争は抑止される構造が成立された。この事は同時に、村同士の紛争が領主同士の戦争に転化する回路が切断されたことを意味し、戦国大名の領国内では、領主同士の戦争が抑止され、平和が確保されることを意味した。さらに紛争主体であった村についても、大名の支配を受け、検地などを通じて、村の境目の決定、すなわち村の領域が決定されることで、村同士による基本的な境相論は抑止されるようになった。村同士の紛争として残ったのは、入会山などの相論や用水相論などに限られるようになった。
こうした状況の結果、戦国大名の領域が、平和領域の単位になるという状況が生み出された。そしてそこでの平和は、家来や村について、中世における自力救済の「相当」「兵具」「合力」の禁止によって形成・維持された。戦国大名は領国内において平和を確立するが、それは内部における自力救済の抑止によって成り立っていた。




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