戦国大名の概念
~自分の力量による領国支配~
 

 地域国家の乱立した戦国時代
領国を支配するということについての権原であるが、この点は戦国大名の概念を巡る学説においても、議論が戦わされている部分でもある。学説を大きく分けるとすると、実力によるとするもの、上位権力からの権限移譲によるとするものとにまとめられる。では実際に、どのようにとらえることができるであろうか。
戦国大名の領国は、当時においては「国家」と称された。領国とそれを主導する大名家が一体のものと認識され、それによって生じた用語といえる。したがって領国は、実質的にも名目的にも、一個の自立した国家として存在していたと捉えられる。戦国時代とは、列島各地にそうした地域国家が乱立して存在していた時代、ということになる。
戦国大名の地域国家としての性格が、最も端的に表現されているのが、今川氏が制定した「分国法」である。「今川仮名目録追加」の第20条である。(以下訳)
昔、守護使不入というのは、室町幕府将軍が天下を支配し、諸国に守護職を任命していた時代の事である。守護使不入であったからといって、今川氏の命令に背いてはいけない。現在は全てについて、自分の力量で、領国に法度を言いつけ、平和を維持しているので、守護(今川氏)が干渉ができないような事柄などは、そもそもありようがない。
ここにみえる守護使不入とは、室町時代に、守護の使者が所領に入部してくることを拒否できる特権で、それは室町幕府将軍から与えられた。守護は、あくまでも将軍から任命される、地方行政・軍政官に過ぎなかった。守護の管轄地域は、決して守護の所領であったわけではない。そこには将軍に直属する多数の人々の所領があった。その所領について、守護使不入の特権を与えられることが見られていた。それはともに、将軍にしたがっているから成立し得た関係であった。
 戦国期も室町幕府の統治時代
ちなみに戦国時代を、人々はまだ「室町時代」と認識していたようだ。「当代」として、室町幕府の治政と認識していたからである。戦国大名も、室町幕府や朝廷との間に、大名によって程度の差はあるが、幕府から守護職に任命されたり、幕府・朝廷から官位を与えられるなど、様々な政治関係を維持していた。特に畿内や西国の大名に顕著に窺うことができ、そのためそれらの地域の戦国大名については、そうした上位権力との関係で位置付けようとする研究も見られるという。そうした学説が「戦国期守護論」として括られているものに当たるという。
しかし現実を見ていくと、そのように幕府・朝廷と頻繁な関係を持っていたのは、それら畿内・西国の大名に限られている。例えば、永禄2年(1559)に幕府で作成された「諸国庄々公用之事」という、諸国の大名等から幕府への上納に関するメモを見ると、「駿河今川義元は、以前は千疋(10貫文)ほど送ってきたが、そのうち毎年は送られてこなくなり、近年は書状さえ送られてこない」とか、「北条氏康は、以前は千疋ほど送って来ていたようだが、覚えていない。10年・20年も馬代すら送られてきていない」「伊達晴宗は、近年は書状さえ送ってこない」等と記されており、すでに幕府との通交すら断絶した大名が多く存在しているのである。そのような大名が存在しているのだから、戦国大名を定義づけようとするならば、それらをも含めた、共通する要素を持って行うのが順当な手法である。
 結局は実力次第
そうしてみていくと、前述した「今川仮名目録追加」の条文の後半部分では、戦国時代は、戦国大名があくまでも「自分の力量」で領国を支配し、維持しているのだから、その命令に従わない場所など、そもそも存在しない、と明言されていることを決定的に重視すべきである。即ち戦国大名の支配が、あくまでも自力によるものである事が、当の戦国大名自身の発言によって知ることができる。このように戦国大名の存立は、あくまでも自力によるものであり、たとえ室町幕府や朝廷と関係があったとしても、それは本質的なものではなかったことがわかる。




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