摂関政治の時代 ~天暦の治~ |
忠平は承平6年(936)に太政大臣に任じられ、翌承平7年に朱雀は元服したが、忠平が摂政を解かれることはなかった。忠平は天慶元年(938)に、良房の例に倣って摂政の辞表を進上したが、朱雀は、良房が摂政を辞めた後に応天門の辺が起こっているから、忠平も摂政を勤めるようにと言って慰留した。忠平は天慶4年に「仁和の故事の如く」関白に補されている。 朱雀には皇子がいなかったので、同母弟の成明親王(後の村上天皇)を皇太子としていた。この時期には天皇家最年長者としての穏子の権威は尊重され、宮廷の事項全般にわたって強い発言権を保持していた。朱雀の譲位も穏子の意趣を受けたものと言われる。
法性寺は藤原忠平が、藤原北家の氏寺として建立した広大な寺である。現在の東福寺の寺地とほぼ重なる。方三町(360ⅿ)規模の寺域を有したが、九条道家が延応元年(1239)に法性寺の東に東福寺を造営して、法性寺も次第に寺域を移し、一乗経通の代になってすべて東福寺に移管された。現東福寺の月下門は文永5年(1268)に亀山天皇が内裏の月華門を下賜したものである。
第一皇子の広平親王は南家で中納言の藤原元方しか後見を持っていなかったことから、第二皇子憲平の立太子となったとされる。元方は天皇の外戚となる望みを失って憤死し、怨霊となったとみなされた。 師輔は、伊尹・兼通・兼家・安子等を生んだ藤原盛子のほか、醍醐天皇第四皇女の勤子内親王、第十皇女の雅子内親王(為光の母)、第十四皇女の康子内親王(公季の母)といった醍醐皇女と結婚する等、天皇家とのミウチ的結合に腐心した。ただし師輔は、外孫の即位を見ることなく、天徳4年(960)に死去している。 |