摂関政治の時代
 ~天暦の治~
 


 摂関設置
朱雀天皇が即位し、忠平が「幼主を保補し、政事を摂行せよ」という醍醐の詔によって摂政に補された時点から、村上天皇・一条天皇などの例外的な時期を除いて、天皇幼少時に摂政、成人後に関白が必ず置かれるようになった。良房や基経の時代には、太政大臣と摂政・関白との区別が明確ではなかったので、これ以降を摂関政治の時代と称する。
忠平は承平6年(936)に太政大臣に任じられ、翌承平7年に朱雀は元服したが、忠平が摂政を解かれることはなかった。忠平は天慶元年(938)に、良房の例に倣って摂政の辞表を進上したが、朱雀は、良房が摂政を辞めた後に応天門の辺が起こっているから、忠平も摂政を勤めるようにと言って慰留した。忠平は天慶4年に「仁和の故事の如く」関白に補されている。
朱雀には皇子がいなかったので、同母弟の成明親王(後の村上天皇)を皇太子としていた。この時期には天皇家最年長者としての穏子の権威は尊重され、宮廷の事項全般にわたって強い発言権を保持していた。朱雀の譲位も穏子の意趣を受けたものと言われる。
 天暦の治
こうして天慶9年(946)に成明皇太子が即位して村上天皇となった。村上はすでに21歳に達しており、忠平は天暦3年(949)に70歳で致仕するまで関白を勤めたが、それ以降、村上は関白を置くことはなかった。後代、醍醐の時代と並べて、天皇親政が行われた「延喜・天暦の治と聖代視されるが、それは藤原氏官人に摂関に相応しい高官がいなかったという偶然と、文人貴族を人事的に優遇したという傾向が合わさって、主に後世の文人が唱えたものである。
法性寺は藤原忠平が、藤原北家の氏寺として建立した広大な寺である。現在の東福寺の寺地とほぼ重なる。方三町(360ⅿ)規模の寺域を有したが、九条道家が延応元年(1239)に法性寺の東に東福寺を造営して、法性寺も次第に寺域を移し、一乗経通の代になってすべて東福寺に移管された。現東福寺の月下門は文永5年(1268)に亀山天皇が内裏の月華門を下賜したものである。
 藤原師輔
忠平の後、政権を担当したのは、長男の左大臣実頼と、次男の右大臣師輔であった。太政官首班の座にあった嫡男の実績であったが、村上との血縁関係は薄く、姻戚関係も、師輔女の安子が3人の皇子を生んだのに対して、実頼女の述子は皇子女をなすことはなかった。師輔の記録した「九暦」逸文には、天暦4年(950)に村上・朱雀・穏子・師輔が「密かに」策を定めて、安子所生で生後2か月の憲平親王(後の冷泉天皇)の立太子を進めたことが見える。
第一皇子の広平親王は南家で中納言の藤原元方しか後見を持っていなかったことから、第二皇子憲平の立太子となったとされる。元方は天皇の外戚となる望みを失って憤死し、怨霊となったとみなされた。
師輔は、伊尹・兼通・兼家・安子等を生んだ藤原盛子のほか、醍醐天皇第四皇女の勤子内親王、第十皇女の雅子内親王(為光の母)、第十四皇女の康子内親王(公季の母)といった醍醐皇女と結婚する等、天皇家とのミウチ的結合に腐心した。ただし師輔は、外孫の即位を見ることなく、天徳4年(960)に死去している。

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