摂関政治の時代
 ~醍醐天皇の治世~
 


 摂政・関白を置かない
醍醐天皇は摂政や関白を置かず、昌泰2年(899)に左大臣に任じた時平と、右大臣に任じた菅原道真を政治にあたらせた。醍醐の外戚である高藤は昌泰3年に内大臣に任じられたが、直後に死去した。その系統は後世、勧修寺流となる。
しかし、天皇の父院(宇多)と祖母(斑子女王)が存命しており、それぞれ国政に関与する意思を有していた。宇多上皇は道真をはじめとする新任する腹心を介して、自ら国政の大綱を遠隔操作したと言われる。また、斑子女王も時平の同母妹である穏子の参入を禁じて、醍醐と時平とのミウチ関係構築を阻止しようとした。この時点では、時平は天皇と全くミウチ関係を有しておらず、天皇父院・祖母の国政介入を阻むことはできなかったのである。
斑子女王が昌泰3年に死去すると、穏子の入内が実現し、時平はようやく国政を主導することが出来るようになった。また、延喜元年(901)に道真が太宰権師に左遷されたのちも、高藤の子定国は今だ官位が低く、時平の対抗勢力とはなり得なかった。
 醍醐の治世
延喜4年(904)には穏子の産んだ保明親王が立太子し、時平の権力も万全となったと思われたが、時平は延喜9年に39歳で死去してしまった。
後を継いだのは、時平の同母弟である忠平であった。延喜9年に30歳で参議から権中納言に上った忠平は、延喜11年には大納言、延喜14年には右大臣、延長2年(924)に左大臣へと急速に昇進し、醍醐の治世を支えた。忠平はもともと、宇多との関係が強かったため、宇多がその権威で朝廷に圧力をかけることとなった。宇多は承平元年(931)まで存命している。
そして延長8年(930)醍醐は死去した。すでに保明皇太子は延長元年(923)、その後に立太子した保明親王の子慶頼王も延長3年に死去してしまったため、醍醐皇子で穏子所生の寛明親王が立太子していた。醍醐の死去の直前、寛明皇太子が8歳で即位した。(朱雀天皇)


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