乱世再び ~上杉家に謀反の疑い~ |
翌慶長5年(1600)2月には、越後春日山城主の堀秀治も、家老堀直政を通じ、景勝が若松城の北西3キロの地に新たな居城として神指城を築城し始めていることや、上杉家の旧領の越後で一揆を煽動していること等を報告してきた。秀治は、織田信長の側近であった堀秀政の嫡男で、景勝の会津転封に際し、越前北ノ庄から越後に入封していたものである。その際、年貢の半分は残しておくのが通例だったにもかかわらず、景勝は年貢をすべて持ち去ったため、秀治と景勝との間で争いになっていた。秀治は年貢の返還を要求したが、景勝は蒲生氏も年貢の半分を持ち去っていたとして取り合わない。そこで景勝の報国をしがてら、家康に訴え出たのである。 さらに3月、上杉氏家臣で津川城代の藤田信吉が、越後を出奔して江戸に到り、徳川秀忠に景勝の謀反を訴えた。信吉は正月に景勝の名代として家康に謁見しており、家康の上洛要請に従うように景勝へ諫言したらしい。そのため、景勝から家康に通じたと疑われたというのが理由のようである。一緒に出奔した粟田国時は途中で景勝に殺されたが、信吉は大坂に至り、家康に報告した。
その詰問状は、4月13日に上杉景勝のもとへ届いた。兼続は、早くも翌14日に西笑承兌に宛てた16カ条からなる返書をしたためている。これは景勝の意向を踏まえたものであることは言うまでもない。 「直江状として知られるこの返書の内容は、軍備や交通網の整備は領国支配の一環であり、謀反の訴えは讒言であるというものだった。景勝の上洛については、領国支配に専念しなければならないこと、雪に閉ざされていることにより、実現できないと回答している。また、逆心がないのに釈明の為上洛するのでは、上杉家の誇りに傷がついてしまうので、一方的に上杉氏が釈明するのではなく、せめて讒訴したものも取り調べるように訴えている。おそらくこれは景勝の本心であろう。 上杉氏は、関東管領を継承してきた名族である。家康の理不尽な上洛要請には応じられないというのが、最終的な結論であった。
5月3日、直江兼続から返書を受け取った家康は、すぐさま会津攻めを決定する。そして、陸奥との国境に近い下野の諸城を固めさせた。この地域は徳川領ではなく、那須氏、大田原氏、大関氏といった那須衆が割拠していたが、家康はそれらの城に自らの家臣を強引に送り込んで改修させている。 前田玄以・長束正家・増田長盛の三奉行、堀尾吉晴・生駒親正・中村一氏の三中老が連署して会津攻めの中止を要請したが、家康は耳を傾けなかった。それはそうだろう、家康にとって会津攻めはライバルになり得る上杉氏を葬り去る絶好の機会であったからだ。 一方の景勝は6月10日、家康を迎え撃つことを家臣に告げている。石田三成と直江兼続との間に密約があり、家康を東西で迎え討つため挙兵したといわれることがあるが、それは結果論であり、検証が必要である。景勝は、家康の本隊が白河口から侵攻するものと想定し、白河芋川城代をはじめ、各地の家臣に対し、城郭の修築と防備を命じた。景勝は、領内に引き込んだ家康を討つつもりだったのである。 |