乱世再び
 ~前田利長屈服~
 


 暗殺未遂容疑者を処分
慶長4年(1599)10月2日、徳川家康は、重陽の節句での暗殺を計画していたとして、浅野長政・大野治長・土方雄久の3名に処分を下す。まず、五奉行の一人である浅野長政は領国の甲斐府中に蟄居を命じられた。石田三成がすでに失脚し、佐和山城へ帰城していたため、五奉行は5人のうち3人が残るだけとなった。さらに、大野治長は、下総結城の結城秀康のもとに流罪となり、土方雄久は常陸水戸の佐竹義宜のもとに流罪となった。
ちなみに、浅野長政は、家康に対して二心のないことを示すため、家督を嫡男幸長に譲ると、あえて家康の領国である武蔵府中に隠棲している。こうして長政の嫌疑は晴れ、長政・幸長父子は関ケ原の合戦でも家康に従うことになったのである。
大野治長と土方雄久は、ともに関ケ原の戦いでは家康に従って赦されるのだが、大野治長は大坂の陣では豊臣秀頼を補佐して家康と一戦を交えることになる。
 前田家討伐を計画
翌日の10月3日、家康は大坂城の西の丸に諸大名を集めると、暗殺計画の首謀者とみなした前田利長を追討することを明らかにし、自ら出陣する用意があると告げた。増田長盛の密告と共に、領国内の城郭を修築したり、武器・武具を集めたりしているのが、謀反の証拠とされたのである。
謀反の疑いは、前田利長の縁戚にあたる細川幽斎・忠興父子にも向けられた。このため、幽斎は家康に対し、二心のないことを誓うとともに、忠興は三男の忠利を人質として江戸に送ることにしたのである。
こうしたなか、領国の加賀で対策を練っていた前田利長も、ついに重臣の横山長知を大坂にいる家康のもとに送り、弁明に努めている。その結果、利長は父利家の正室で実母である芳春院(おまつの方)を人質として差し出すことで赦免されることになった。これにより、利長と家康との間に和睦が結ばれるが、実際には利長が家康に屈したに等しい。以後、利長は家康に従って行動することになる。
 人質となる芳春院
芳春院が人質として伏見から江戸へ向かったのは、翌慶長5年5月17日の事だった。江戸時代には、大名の妻子が江戸で暮らすことを義務付けられるが、芳春院はその先駆けであったといえる。
ちなみに芳春院は、その後15年間を江戸で人質として暮らし、慶長19年(1614)利長の死没により、すでに家督を継いでいた弟利常の実母である寿福院と交替し、加賀へと帰国している。




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