乱世再び ~三成失脚~ |
利家が亡くなった翌日の閏3月4日、早くも大坂では、加藤清正・福島正則・浅野幸長・黒田長政・細川忠興ら俗に「七将」と呼ばれる「武功派」の諸将が、石田三成の邸宅に押しかけた。いずれも、文禄・慶長の役以来、三成と鋭く対立していた武将たちである。だが三成は秀頼の家臣であり、勝手に襲撃して殺害することはできない。そうしたことから殺害を狙ったのではなく、圧力をかけてこの機に三成を政局の表舞台から追放しようとしたとも考えられる。
大坂を脱出した三成は、佐竹義宜に庇護されて伏見に逃れると、この伏見城に入った。三成が伏見の逃れたことを知った七将も伏見城へ向かう。しかし、前田玄以が守る伏見城を攻撃するわけにもいかない。そのため、伏見にある徳川家康の屋敷に押しかけ、三成の討伐を求めたのである。 家康としては、正当な理由もないのに三成を殺すことはできないと考えた。そもそも、家康側にこの時点で三成を殺す理由がまったくない。仮に三成一人を殺したところで、三成に味方する大名を排除することができるわけではないどころか、むしろ反発を招く恐れすらある。結局家康は仲裁に乗り出し、三成を奉行から外すという条件で、七将に矛を治めさせたのだった。
利家がこの世を去り、三成が政界の表舞台から去ったため、家康は並ぶ者のいないほどの実力者となった。閏3月13日、家康は伏見の徳川邸から伏見城の西の丸に入った。世間では「天下殿になられ候(多聞院日記)」と噂したというから、この時点で家康の存在が抜きんでたものになったとみられる。そして家康は、伏見城に入ることでほかの四大老との差を見せつけようとしたともいえる。 閏3月21日には、家康は毛利輝元と起請文をかわす。輝元から家康に宛てた起請文には、「父兄」のように思うとあり、家康から輝元に宛てた起請文には「兄弟」のように扱うとあった。実年齢から言っても上の家康が、輝元を圧倒したのである。 |