乱世再び ~利家と家康~ |
一方、政務の代行を委ねられた五大老筆頭の徳川家康は、伏見に留まることになった。伏見の家康と大坂の利家、豊臣政権は二か所に拠点を持つ「二頭政治」の様相を呈していく。 秀吉亡き後、名実ともに政権の実力者となった家康は、早くも専断を始めた。それまで、大名同士の婚姻は、同盟を意味することから秀吉の許可を得ない政略結婚は禁止されていたのだが、家康は諸大名との政略結婚を推し進めた。 これは、家康自身の勢力を拡大し、基盤を固める狙いがあったのだが、家康としては利家やほかの五大老の上杉景勝、宇喜多秀家、毛利輝元らより先へ進みたいという思惑があっての事だろう。あるいは、天下取りのためというよりも、秀吉亡き後世情不安定になりつつあった状況において、関東に君臨する徳川家を守るために、諸大名と結びき、己の与党を増やしておこうという狙いがあったのかもしれない。
正月19日、石田三成ら五奉行は、前田利家ら四大老と諮り、三中老の中村一氏・生駒親正・堀尾吉晴を使者として家康の元へ派遣した。利家は家康との関係は決して悪くはなかったが、これはさすがに専横が過ぎると思ったのだろう。三中老は家康に対し、秀吉の遺命を順守するように求め、違背したのであれば大老を辞すように伝えたのである。 しかし家康は、逆に大老をやめさせようとするのは秀吉の遺命に背くものだと反論し、使者を追い返す。これにより家康と三成ら五奉行、利家ら四大老との溝はさらに深まった。特に前田利家はこれに激怒。家康派と利家派に二分するほどの一触即発状態になり、伏見の徳川邸には浅野幸長・福島正則・池田輝政・黒田長政ら「武功派」の面々が終結し、家康の警護に当たった。
2月29日、利家は病を押して伏見の徳川邸に赴き、家康を表敬訪問する。利家はこのとき、家康と刺し違える覚悟すらあったとされるが、家康は利家を手厚く接待し、利家の機先をそらしている。この直後、利家の病状が悪化したため、翌月3月11日、今度は家康が大坂の前田邸に利家を見舞っている。これにより、政情は安定するかに思われた。 |