ヴェランダコロニアル建築 ~ヴェランダ付き西洋館~ |
ヴェランダ付きの住宅は明治初年度の西洋館には多く、信州佐久の中込学校、甲州の東山梨郡役所、岡山県和気町の不受不施派の法泉寺は、柱6本に支えられた百数十年前のヴェランダを今も残して見せている。日本列島の関東以西にヴェランダ建築は多いのだが、実際には北海道から鹿児島まで全国に広く分布している。 ヴェランダの付いた西洋館の形はわかりやすい。壁が張り出したり塔がつきだしたりせず、上にはスッパリ切った寄棟の大屋根が範り、下には正方形もしくは長方形の建物本体が納まる。デザインは単調で色を使うことも飾りをつけることもないが、その代わり表情をただ一点、ベランダに絞る。この建物の前に立つと、視野いっぱいにヴェランダが広がり、他の印象はのちに残らない。 ヴェランダ作りは簡単で、軒先に柱を立てて支え、その下の空間を使うだけのことだから、日本の民家の縁側に似てなくもないが、広さが違う。はるかに広いし、ときにはその広いヴェランダが南の面だけではなく東西に、さらには北側にまでぐるりと回りこむ。室内空間に匹敵するほどの空間が、一つ屋根の下に納まっているところに、日本の縁側とは違う性格が施されている。
しかし、ヴェランダが日差しを遮るためなら南だけに張り出せばよいのに、四面ぐるりと回すのは何故か?どうしてフランス窓と鎧戸が必ず使われるのか。その謎は、日本におけるヴェランダ付西洋館の登場の事情から探れる。元をたどると、幕末に開港したばかりの長崎、横浜、神戸などの外国人居留地に行きつく。 そこは小さな外国だった。日本が二百年余りの鎖国を終え、安政元年(1854)に国を開いたとき、待ちかねていたように欧米の貿易商人たちが、長崎をはじめとする開港場に上陸してきた。彼らの多くは直接祖国からやってきた者ではなく、香港や上海といった中国沿岸部の外国人居留地からさらなる商機を求めて北上してきたのである。未踏の地には大きな利益もあろうが、同時に危険も少なくない。危険を顧みず、利益のみを念頭において上陸する者たちを冒険商人(アドベンチャー・マーチャント)といい、例えば上海から横浜に最初に上陸し、「英一番館」の名を得たイギリスのジャーディン・マセソン商会は、アヘン戦争時に黒幕的働きをした張本人である。彼らは生糸や茶といった日本の特産品を買い付ける一方で、当時内戦状態にあった幕府と薩長陣営の両方に武器を討って大きな利を得た。 その利をつぎ込んで、彼らは自分たちの住む町をまるで外国のように整えてゆく。都市の基盤整備を幕府そして明治政府に厳しく要求し、日本国内にもまだなかった新式の上下水道を整備させ、洋風公園をつくらせ、ガス灯を点じさせる。日本側の資金と外国側の技術によってしっかり築かれた基盤の上に、自分たちの資金を投じて、教会、病院、ホテル、クラブ、劇場、墓地、ついには競馬場までつくりあげる。 近代的な上下水道から公園、ホテルまで、いずれも日本初のものばかりで、居留地という反植民地制度の問題とは別に、彼らが自分たちの住む場所を完全にヨーロッパ式の都市に作り上げようとした熱意にはうたれる。長崎屋横浜に残る外国人墓地からも知れるように、行った先に骨を埋める気持ちだったからこそ、あれだけの街づくりができたのかもしれない。 横浜・英一番館の跡地
もう一つは、バンドのビジネス街を見下ろす丘の光景で、木立と生垣に縁どられた石畳の坂道を上ってゆくとペンキ塗りの門が見え、門を入ると明るい家があって、南側には芝生の庭が広がる。右手にバラ、左手にリュウゼツランを見ながら芝生の端まで進むと、眼下には商館の屋根が切れ目なく続き、海が広がる。 外国人商人たちは、丘の上に住み、眼下に広がる街の中で働いたが、この二つの光景に共通するのがヴェランダだった。丘の上の住宅は水平線に向かって、平地の商館は港に向かって、広いヴェランダを開け放つ。 外国人商人は、丘の上のヴェランダの付いた開放的な西洋館のことを「バンガロー」と呼んだ。現在の日本では、高原に建てられた木造の小さな宿泊施設のことをバンガローと呼んでいるが、この言葉に込められた簡便で開放的な語感に、南国の異国情緒を加えれば、かつて欧米の冒険商人の脳裏にあったバンガローのイメージになる。 ヴェランダの付いた西洋館のことをバンガローと呼んでもよいが、この語感は丘の上の住まいに限られ、平地の商館やホテルは外れる。また、のちに登場する煉瓦や石の本格的なヴェランダ付きの建物までバンガローでくくるのは難しく、この建築様式のことを「ヴェランダコロニアル様式」と呼ぶ。 神戸・北野にある洋館 グラバー園から望む長崎市街 |