名君・上杉鷹山 ~鷹山の生活~ |
その一行は40人余で、本陣佐々木家のほか、近在の14軒に分宿しているが、随行者は、御家老・御小姓組・御仲間年寄・御勘定頭・代官など、藩の中枢部の人達であった。本陣には、御側用人の木村丈八、御膳番志賀八右衛門、蓬田友四郎、平小姓3人、医者2人などの側近と、茶道・台所頭はじめ、台所・膳部の下遣いなど23人が宿泊している。藩主の鳥撃ちとはいえ、物々しい行列であったことが知られる。しかし5泊の賄は、台所の賄といい、直接、藩台所の指揮で準備しているのである。 これに対して、手伝いとして成田村では、飯炊・小遣・買物夫各1人、佐々木家と長六家でも、召使・下女など4人を出している。また佐々木家では、薪炭・塩・味噌を提供したので、これに対する代銀を受けている。本陣では燃料・材料および手伝人夫を出すだけで、賄は半の台所膳部の手で準備されたため、献立の記録がなかったものであろう。 5日間の獲物は、37羽とあり、鴨であったとみられているが、鳥撃ちの行事は、武術の訓練として、改革の最中であっても実施されていたのである。米沢と成田の行程は、宮村舟場から舟で糠野目へ松川を下り、そこから米沢街道を米沢に向かうものであった。
(26日晩) 平 ぬぬヶ、くくたち/汁 えび、ねぎ/飯 (27日朝) 平 切干、こんにゃく、とうふ/汁 なつ菜/飯 (27日晩) 平 よせとうふ 葛かけ/汁 くぐち、牛蒡/飯 (28日朝) 平 がん、牛蒡、せり、つくし/汁 葛/飯 (28日晩) 平 塩引、くくたち/汁 うど/鉢 うこぎひたし/飯 (29日朝) 平 切干、こんにゃく、豆腐/汁 えび、ねぎ/飯 以上の献立は、藩主の物ではないが、大変粗末なものであったといえよう。同記録には、前藩主重定一行が、延享3年(1746)2月5日から7日間滞在した時の賄を記載している。それによれば、平・汁・飯のほかに、晩食には鱠・大猪口・吸い物のほかに、酒肴や夜食がつくこともあり、朝には皿・壺がついている。鱠には、 くり大根、にんじん、きくらげ、ひずなど、珍しい煮物があり、平には、たら、かれいなどの一品物もみられた。相模様の賄は、藩主ではないとはいえ、あまりにも差があり、質素である。これは、鷹山の改革期の反映であるといってよいであろう。
寛政8年5月、領内一般に対しても、葬祭質素の令が出され、「葬は薄きを尊び、礼は有無に従う」という古来の教えによるべきことを諭し、具体的な簡素化を指示している。それらは例えば、これまでは、行列まで挑灯を出してきたが、今後は棺の辺へ、その家の挑灯のみとすること、幢灯篭は4本のみとし、野ロウソクは立てないこと、などである。また法要についても、僧は2,3人いない、僧中への賄は一汁一菜とし、酒は出さないこと、などともある。このことは、18世紀後半になると、一般庶民の中にも生活文化が高まるとともに、儀式的なものが次第に華美になっている傾向への戒めでもあった。このような倹約令の徹底は困難な場合が多いが、鷹山の実践が領内に大きな影響を与えたことは事実であった。 |