2・日本における征服王朝 ① 日本国家の起源と征服王朝 東北アジア系文化の輸入説 |
大和朝廷の朝鮮半島進出説を疑う |
畿内を中心とした日本国家の建設事業がほぼ一段落し、その余力をかって朝鮮半島に進出することになり、その結果、朝鮮にまで及んできた東北アジア系文化の大規模な日本輸入を促したという解釈がされているが、果たしてそうだろうか? というのは、当時の大和朝廷の日本と南部朝鮮とが何らかの特別な関係にない限り、敢えて南部朝鮮の征服活動に乗り出す必然性が十分にあるとは思えないからである。また一般に、農耕民族が海外に征服活動を行う例は、極めてまれであるばかりではなく、前期古墳文化の内容から見ても、その担い手が征服活動をなすための武力的要素に欠けており、そのような前期古墳文化人が、すでに東北系アジア系の騎馬民族文化をもって、より高度に武装されていた朝鮮に進出して、征服活動に成功し、その騎馬民族文化をもたらして帰るというようなことはあり得ないはずだ。 |
通常の歴史の流れに沿って考える |
通説的な歴史の流れに沿って考えると、次の通りになるのが普通だと思われる。 ①、前期古墳文化と後期古墳文化とが、互いに根本的に異質的な事 ②、その変化がかなり急激で、そのあいだに自然な推移を認めがたいこと ③、一般的に見て農耕民族は、急激に他国あるいは他民族の異質的な文化を受け入れて自己の伝統的な文化の性格を変革させるような傾向は極めて少なく、農耕民である倭人の場合でも同様であったと思われること ④、わが国の、後期古墳文化における大陸北方系騎馬民族文化複合体は、大陸及び半島におけるそれと、まったく共通し、その複合体の、あるものが部分的に、あるいは選択的に日本に受け入れられたとは認められないこと。言い換えれば、大陸北方系騎馬民族文化複合体が、一体としてそっくりそのまま、何人かによって、日本に持ち込まれたものであろうと解されること ⑤、弥生式文化ないし前期古墳文化の時代に、馬牛の少なかった日本が、後期古墳文化の時代になって、急に多数の馬匹を飼養するようになったが、これは馬だけが大陸から渡来して、人は来なかったなどということはあり得ない。どうしても騎馬を常習とした民族が、馬を伴ってかなり多数の人間が、大陸から日本へ渡来したと考えなければ不自然であること ⑥、後期古墳文化が王侯貴族的・騎馬民族的な文化で、その弘布が、武力による日本の征服・支配を暗示させること ⑦、後期古墳の濃厚な分布地域が軍事的用地と思われるところに多いこと ⑧、一般に騎馬民族は陸上の征服活動だけではなく、海上を渡っても征服欲を満足せしめようとする例が少なくないこと、したがって南部朝鮮まで騎馬民族の征服活動が及んだ場合には、日本への侵入もあり得ない話ではないこと 以上8つの理由によって、前期古墳文化人なる倭人が、自主的な立場で騎馬民族的な大陸北方系文化を受け入れて、その農耕民族的文化を変質させたのではなく、大陸から朝鮮半島を経由し、直接日本に侵入し、倭人を征服・支配したある有力な騎馬民族があり、その征服民族が、以上のような大陸北方系文化複合体を自ら帯同してきて、日本に普及させたと解釈する方が、より自然ではないかと思われるのである。 |
反論 |
上記のような解釈には当然反対論が多数出るはずだ。たとえば、前方後円墳は日本独特な形成の高塚墳で、それが少しも断絶することなく、前期にも後期にも行われたのは、その造営者が終始変わらなかったことの実証に他ならないという所論や、騎馬民族が我が国を攻略し、その首長となったとすれば、それは「武」の力であって、そのためには、騎馬戦につごうのよい彎刀や、北アジアのものが常用した彎弓などがもちいられていなければならないはずなのに、日本の古墳時代にそのことがないのは、騎馬民族の日本侵入を否定する有力な根拠となるという説や、古墳における馬具の初現の時期や記紀にみえる馬に関係した記事などから、日本における軍馬の飼養を5世紀中頃以後のこととみて、それ以前の日本に騎馬の武人の存在を否定しようとする諸説などがあるが、それらはいずれも古墳文化の一部分だけに着目して全体を忘れた所論であり、しかも間違った前提から出発した議論ばかりであって、有力な反論とは成り得ない。 |