2・日本における征服王朝
① 日本国家の起源と征服王朝
副葬品

    騎馬民族のものと酷似する副葬品
副葬品も、初めは武器や馬具、様々な日常用具が備えられていた。いわゆる石製模造品が納められたが、のちになると、さらに食器や副葬品のほか、男女・装馬・鳥獣・家屋・武器・衣蓋・舟などの形をした、実に様々な形象埴輪が加えられていて、大陸の古墳における副葬品や明器と同じような意義を持った葬礼がおこなわれることになった。
しかも、そこに副葬された武器・馬具・服飾品の大部分は、魏晋南北朝時代、すなわち3世紀から5世紀ころにかけて、満蒙・中国北部方面で活躍した東北アジアの騎馬民族、いわゆる胡族のそれと、ほとんど全く同類であることが留意されねばならない。
この胡族の文化は、北アジアの騎馬民族の文化と中国の漢族の文化が、北シナ・満州方面における両民族の接触・混住の結果、一体化して出来上がったもので、中国化した騎馬民族文化ともいうべきものである。しかしその特質は、もちろん騎馬民族的なところがあり、騎射のための馬具や、弓矢の発達・重用、騎馬に便利な服装や甲冑の普及が特に注意を惹き、一般に平和的な、宗教的な、素朴なものより、軍事的な、実用的な、華麗なものが行われた。
    馬具・服装の比較
たとえば、男の服装には、筒袖の上着と、太型の袋のようなズボンの騎馬服が普及し、これにはバックル等のついた革帯をしめ、それに飾金具の類を着装した。またしばしば金銅の宝冠をいただいた。鎧は短甲で、胸・胴部のみを覆うものがあらわれ、また小札を綴じ併せて作った札甲が普及した。刀はその柄頭に鳳凰・竜首の環頭を飾ったものが多く、弓矢には骨製の鏑矢を付した、いわゆるメイセンがおこなわれた。
馬具では、馬鞍や鞍に華美なものが流行し、鐙・馬鎧もおこなわれた。また馬形の意匠が愛好された様子がある。一方では南遷した鳥桓・鮮卑・匈奴らによって中国北部に盛行し、一方では高句麗・夫余らによって朝鮮に伝播したことは、遺物と文献とを参照することによって容易に推測される。
そうして、それらとほとんど同じ文物が、日本の後期古墳文化を特徴づけており、武器や馬具などが後期の古墳から豊富に出土するということは、当時騎馬の武人が、日本で縦横に活躍していたことの実証であり、武器類も、弥生式文化に見たような宝器的な、呪術的なものはなくなって、実用品が副葬されるようになった。
弥生式文化ないし古墳時代前期と、古墳時代後期とでは、現世の生活様式に著しい差異があったばかりでなく、死後の世界についての人々の観念にも、根本的な相違があったことを暗示している。
  
    大陸騎馬文化の影響の濃さ
こうして後期古墳文化では、弥生式文化およびそれに続いた前期古墳文化の呪術的な、祭司的な、平和的な、東南アジア的な、いわば農耕民族的な特徴が非常に稀薄になって、現実的な、戦闘的な、王侯貴族的な、北方アジア的な、いわば騎馬民族的な性格がいちじるしくなった。このように、弥生式文化ないし前期古墳文化と後期古墳文化とでは、その正確に本質的な相違があり、その間の推移は、むしろ急転的・突発的で、そこに一貫性・連続性を欠いているように感じられる。しかも、魏晋南北朝時代の中国・三国時代の朝鮮の場合は、そういう北アジア系の騎馬民族文化を持ち込んできて、前代の文化を激変させたものが誰であったか、その王侯文化の主体が誰であったか、歴史に照らしてほぼ明瞭にわかるが、日本の場合には、それがはっきりしない。
しかし、文化の波及に都合のよう陸続きならばいざ知らず、海を渡って、この二本に大陸からそういう異質な文化が、急激にまた支配的に伝播してきたということは、弥生式文化ないし前期古墳文化を持った倭人が、自らの発意で、これを積極的に受け入れ普及させた結果と解釈できるものだろうか。もし自らの発意だとすれば、あれほど農耕民族的な倭人がこれほど騎馬民族的に変容するためには、よほど重大な内部的原因があったとみなくてはならないが、そういう内部的要因が考えられるものであろうか。古墳時代前期にそのような内部的原因が熟していたような兆候は見られないと思うのだが。





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