2・日本における征服王朝
① 日本国家の起源と征服王朝
古墳時代

    古墳時代の区分方法
古墳及びその出土遺物を中心とした考古学的研究によって、古墳時代がどのように時期区分されるか、その各時期の文化がどのような性格のものであったかを見て、そこに国家形成の主役を務めた者と、その行動の反映を追求していく。
古墳時代の時期区分法は、前・中・後の三期に分けるものと、前・後の二期に分けるものとあるが、実際には概ね三期に区分される。
三時期区分法では、高塚墳墓の発生した3世紀の終りか4世紀の初めごろから4世紀の後半の中頃までを前期とし、それから5世紀後半の中頃までを中期とし、以後6世紀後半~7世紀末までを後期とするのが普通であって、この区分法が概ねの区分法である。
一方、二時期区分法には、まったく相反した見解に基づく二種があり、その一は、前期を3世紀末ないし4世紀初めから5世紀末までの約200年間、後期を5世紀末ごろから7世紀末までの約200年間とする考えの者で、だいたい三時期法の前・中期をあわせて一期とし、これを前期として後期から区別するものである。
その二は、前期を3世紀ないし4世紀初めから4世紀後半の中頃までとし、後期をそれから以後、7世紀後半ごろまでとする考えのもの。すなわち、だいたい三時期法の中・後期をあわせて一期としてこれを後期とし、前期と区別するものである。
このように、二時期法には二種あって、両者の基づくところの見解に、根本的な相違があることを示している。
    前期と中・後期に文化的相違
江波氏は、三種の時期区分法のうち、最後のものに従うのが最も妥当としている。その理由は、三時期法の中期・後期の古墳文化は本質的に同似しており、これを一連のものとして把握することが可能であるのに対し、前期のそれは、中・後期のそれと性格的に非常に違った点があり、かえって弥生式文化とは密接な関連を示しているという事実による、としている。弥生式文化と前期古墳文化との間に密接な連繋のあることは否定できないだろう。
前期では円墳もあり、また丘陵を利用して前方後円墳を作っている場合も少なくないが、その内部構造は、大きな丸木を二つに割り、割竹形とか舟型とかいわれるような形状の木棺をつくり、粘土その他を分厚く張った床の上に置いたものが普通で、また弥生式時代以来の箱式石棺がひきつづいておこなわれ、それらの木棺・石棺を覆う長大な竪穴式石室がつくられた。そうして、これら前期古墳の石室は、いずれも墳丘の頂上に近いところに安置されたのが特異である。
副葬品は、前期の古墳では、実用品よりはむしろ宝器的な、象徴的な、あるいは呪術的な意義を持ったと思われる、鏡・剣・玉や、石釧・鍬形石・車輪石などが納置されたことは周知の事実で、鏡や剣や玉の副葬は、たしかに、弥生式時代からの伝統にしたがうものであろう。鍬形石・車輪石なども、その形式が弥生式時代の貝輪に出たことは間違いない。
これらの事実から前期古墳文化は弥生式文化から出たもので、多分に弥生式文化要素を保っており、すこぶる呪術・宗教的な色彩が強く、その担い手の社会は、魏志倭人伝に見る倭地の状態からあまり遠くないことが創造される。
    
    同一系統の文化
このことは、弥生式時代後期文化と、古墳時代前期文化が、年代的にも互いに接続していて、その間にギャップがないことから、一層確かめられる。すなわち、弥生式文化の担い手と古墳時代前期文化の担い手は、確かに同一系統で、その文化の推移も、おもに前者の内的発展の結果として、特に階級発生の結果として理解されるものである。
そうsて、そこにおける大陸文化的要素なども、墳丘の頂上に棺を置く風や、鑑鏡を実用品としてでなく、呪術的ないし権威的な特殊なものとして取り扱う風などに見られるように、決して外地からの直接的移植によるものではなく、間接的な影響か、弥生式文化を通しての伝来に過ぎないことを示している。
一方、後期では、はじめは応神・仁徳陵で代表されるような、前方部と後円部がほぼ均等の大きさ・高さを示す前方後円墳が多く、それには規模のすこぶる壮大なものが少なくない。棺は直接土中に埋められる風が一般的であったらしいが、しかし組み合わせ式木棺や、長持系石棺のような、大陸系・中国系とみられる、木棺や石棺が行われるようになったことが注目に値し、その結果、竪穴式石室も前期のそれに比べて、横幅の広い平面のものとなった。そうしてそののちに、大陸系であることの明白な、横穴式石室が盛んにおこなわれ、一部には、壁画で飾られた石室も現れた。いわゆる装飾古墳である。
 





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