信玄の領国経営 ~産業振興と商業政策~ |
江戸後期の農政学者・佐藤信淵は、その著「農政本論」にて、信玄の農業政策を次のように絶賛している。 「国政ニ篤ク心ヲ用テ、力ヲ堤防溝洫ニツクシテ、水制ノ法ヲ精密ニシ、能ク百姓ヲ教育シテ農政ニ懇到ヲ極メタルハ、甲州ノ武田信玄ヲ第一トス」 信玄の農政は一頭地を抜きんでていたのである。その農政もさることながら、信玄の政治家としての真の偉大さは、他の戦国大名が農業を民政の中心に据えていたのに対して、山国という甲斐の国情を知悉して総合開発的な殖産興業策を展開した点にも求められる。 甲斐の林野面積は八割近くを占める。信玄はその山岳資源に着目、治山を促進すると共に地場産業の振興を図って富国の実をあげたのである。他国の追随を許さない鉱山開発はその一例である。また一般木材や、みつまた、こうぞ、漆などを広範囲に植栽させたのも、特産品奨励策の一環だった。和紙や漆が信玄時代の甲斐の代表的特産品であり、信玄の施策が見事に結実していたのである。 信玄はまた、職人の保護育成にも努めている。紙漉、紺屋、桶屋、鍛冶、大工、塗師、畳刺、鞘師、檜物師、杣師、鋳物師、石切などの職人の保護には特に厚いものがあった。彼ら専門技術者集団を保護育成することで、工業の振興をもはかったのだ。今なお山梨の特産品として有名な甲州印田や雨端硯、水品化工品などは、信玄時代からの伝統を受け継いだものなのである。
商品流通に欠かせない秤や升などの度量衡制度の統一も、信玄の功績といえる。甲斐独特の甲州桝も、度量衡統一削から生まれたものだった。 甲州桝は四種からなり、最も大きいものを鉄判(京枡三升分に相当)といい、以下、端子(鉄判の4分の1)、半(同8分の1)、小判(同16分の1)と呼ぶ。この独特の量制は、籾納めを原則とする計算に極めて便利なもので、信玄が甲州桝の使用を徹底したため、市場は非常な賑わいを見せ、領民も大いに喜んだという。 事実、甲州桝の制度は、武田氏滅亡後の江戸時代にも、領民の強い希望で特例として存続が認められ、昭和初期まで生き続けていたほどだった。 税制の統一も、領国経営の大きな根幹をなす。細かい税制はともかく、江戸時代の甲斐には大小切と呼ばれる独特の税法があった。その始原は信玄時代にさかのぼるといわれる。具体的には、田畑貢租を3等分し、そのうち3分の2(大切)を物納、残り3分の1を(小切)金納するというものだ。 この税法はのちに改正されて大切分の3分の1も金納するようになったが、これはその年の公定米価に換算して納めたので、さして珍しいものではない。 大小切法の特異性は、むしろ小切のほうにある。小切値段は、江戸時代を通じて、金1両につき米4石1斗4升という換算比率が据え置かれていた。これは農民にとって極めて有利な税法だった。米価は次第に上昇していったが、換算率が300年近くも一定だったため、実質的な貢租負担率は米価に反比例して減少していったからである。 徳川幕府は無論、大小切法の廃止を目論んだが、甲斐領民の激しい抵抗にあって、甲州桝と同様、特例的に黙認せざるを得なかったという。 皮肉なことに、その徳川幕府をひらいた家康は、支配原理の範を信玄の領国経営策に求めている。それほど、信玄の領国経営手腕は卓越していた。信玄はまさに、当代随一の名政治家でもあった。 |