1・真田昌幸の出自と系譜 真田七郎幸春 |
古くから真田の地を領していた |
真田氏は真田区内の長谷寺を菩提寺としていた。同寺は幸隆の開基と伝え、幸隆夫妻とその子昌幸の墓がある。また、真田区内には、同区の北東方向に聳える四阿山の頂上に祀られている白山権現の里宮である山家神社があるが、同社には幸隆の長男信綱と三男昌幸が、それぞれ真田家の家督を相続するに際して発給した「四阿別当之儀」についての安堵場が伝わっている。 また、幸隆によって真田町本原の「御屋敷」に移される以前の真田氏の居館跡については、今まで不明であったが、「真田町誌歴史篇(上)」刊行にあたっての、小池雅夫氏の調査により、その館跡推定地が真田区内に存在することが明らかにされた。古い地籍図・江戸時代の真田村絵図・用水路・地形などによる判明したものである。用水路沿いに土塁跡・矢竹の繁みが今もわずかに残るこの場所は、宝永3年(1706)に松代藩士落合保孝が著した「つちくれ鑑」の真田村探訪記の中の「真田屋敷と云うところあり」に当たる屋敷跡とみられる。真田の集落内にあり、背後に幸隆の菩提寺である長谷寺が控えており、この真田区を名字の地とした真田氏の居館跡としてふさわしい地に位置している。 これらの諸事実からみても、真田氏は古くから真田の地を本拠としていた土豪であったことは間違いがないところである。海野氏の正系を継ぐ幸隆が、初めて真田に移りその地名を取って姓とした、などという話は成立し得ない。 |
真田幸春とは |
海野氏系図は何種類もあるが、「信州滋野氏三家系図」が確かな史料と合致する点が多く、最も信用のおける系図とみられている。この系図によると、鎌倉時代初めに弓の達人として名を馳せた海野幸氏の孫茂氏の代に、その弟たちが会田、塔原、光、田沢、刈屋原と、現在の東筑摩郡の各地に入り込み発展している。 そして、この兄弟には「真田七郎」と名乗ったという「幸春」もいたとされている。この兄弟の祖父幸氏はもちろん父の長氏も「吾妻鏡」にその名がみえる。茂氏の兄弟については、助氏が弓の名手であったものとみえ、幕府の弓始めの射手に建長4年(1252)から文応元年(1260)の間、毎年のように選ばれていることが、やはり「吾妻鏡」にみえる。他の兄弟については確実な史料には欠けるし、この代に一度各地に分かれて広がったというのは不自然な感がある。しかし、鎌倉時代末までには、東筑摩の五ケ郷まで海野氏の支配圏が及んでいたことは事実であり、鎌倉時代中期のこの頃、これらの地域へ海野氏一族が進出していった、ということは認めてよいだろう。 とすると、「真田七郎幸春」なる人物が存在していた可能性もかなり高そうだ。少なくとも鎌倉時代中期には、海野氏の分かれの一つが真田の地に土着して真田氏の祖となったことについては、ほぼ間違いないようである。 |
幸春は海野氏からわかれた初代? |
幸春は、「信州滋野氏三家系図」では、「真田七郎」として、海野氏の惣領茂氏の弟としてあるのに対し、「寛永諸家系図伝」所収の真田氏系図では、同じ幸春が「海野小太郎」として海野氏の当主とされている。そして、これ以後の海野氏の歴代当主の名も長らくにわたってまったく一致せず、棟綱より五大前の幸義以降になってようやく、ほぼ一致するようになる。幸義は応永7年(1400)の大塔合戦当時の海野氏当主であり、これ以後の歴代も他の史料より、その実在を確認できる者が多い。 両系図の茂氏・幸春と幸義の間を見ると、「三家系図」では五代であるのに対し、「寛永系図」ではその実に倍の十代にもなっている。その間はどんなに長く見ても150年にはならない。系図全体の信憑性から見ても、「寛永系図」の方は多すぎる。 また、「三家系図」では、幸春の兄茂氏より数えて棟綱は十二代目にあたるが、「寛永系図」の幸春以降、実在の確認できる幸義の前の代、幸則までは十一代になる。以下は全くの推定だが、「三家系図」と一致しない「寛永系図」のこの部分、即ち幸春より幸則までは「真田氏初代」幸春から幸隆に至るまでの、真田氏の歴代にあたるのかもしれない。真田幸隆が生まれたのは永正10年(1513)。幸春当時からは約250年後のことである。1代25年としてちょうど代数も合う。 つまり、江戸時代初期、あるいは「寛永系図」編纂のおりに、真田氏系図を幕府へ提出するにあたって、幸隆を海野氏系図に結び付けるだけでなく、次のような工作も行われたのではないか、と思われるのである。 まず「真田七郎」とあり、海野氏から分かれた真田氏の初代とみられる幸春を、茂氏だったはずの海野氏の惣領の位置に据え替える。そして、幸春以降、幸隆に至るまでの真田氏の歴代を、実在の確かな幸義以降の海野氏当主は残して、それ以前の必ずしも存在の明らかではない部分を削ったところへ、そっくり挿入する。その結果「寛永系図」では不自然に代数が多くなった、とも取れるのである。 いずれにせよ、この話は推測の域を出ない。しかし、これがひょっとして当たっていたとするならば、海野宗家から分かれて以来、幸隆に至るまでの真田氏歴代の系図ができることにもなるのである。 |