2・真田昌幸の領国経営
俊敏な領国経営

    上田は真田の旧城下
真田昌幸が支配下に置いた上田・小県郡地方は、長野県の東部の千曲川沿いにあり、地理的にも上田盆地と呼ばれ、四方を山に囲まれた独立小王国のようなまとまりをもっている。
戦国乱世の末期に、初めてこの地域を統一支配したのが真田昌幸であって、以後40年にわたって真田氏が支配したのであるが、歴史に際立った足跡を残し、周辺から突出して特色を持っているので、7万石程度の小さな地域ながら、あたかも一国のような体裁と重みをもっていたのである。
真田の領国支配ののち、仙石氏が80年、松平氏が160年の長い支配にもかかわらず、現在でも「上田は真田の旧城下」とこの地の人は誇らしげに思い、県立上田高校の校歌にも「関八州の精鋭を、ここに挫きし英雄の、義心のあとは今もなお、松尾が丘の花と咲く」という歌詞が詠み込まれている。ここで「英雄」とは、間違いなく真田昌幸のことである。
現在の長野新幹線の上田駅の駅前広場には、昌幸の次男真田信繁(幸村)の馬上姿の銅像が立っているが、それは信繁が大坂の陣で示した武勇と智略があまりにも有名なので、現在では昌幸より信繁の方が一般的には有名であることを示している。
だが、領国経営ということでは、昌幸がその基礎固めをしたのである。真田勢が戦闘に強かった理由も、昌幸の領国経営が背景にあったからこそといえるのである。
    真田昌幸の活躍
昌幸が真田家の家督を継いだのは、長篠の合戦で兄の信綱・昌輝が相次いで戦死たためであり、29歳の時であった。そのとき、武田勝頼から与えられた任務は、出身地の信濃小県郡に隣接する上州の沼田方面の備えであった。
天正10年(1582)3月、織田・徳川連合軍によって武田氏が滅亡するまで、昌幸は出身地の信州小県郡の東部を確保しながら、上州吾妻郡沼田地方の経営に努めた。まず同族の海野氏と協力して岩櫃城を攻め落とし、さらに勝頼の出陣による甲州勢の援助を得て、沼田城の攻略にも成功。北上州の沼田盆地の大半の領地を預かる有力武将に成長した。
天正10年、武田氏滅亡の直前に、昌幸は敗色濃い武田勝頼を迎え入れるべく、甲府を脱出して岩櫃城に帰った。しかし勝頼は敗走の途中、天目山の麓で自害して果てたので、昌幸は北上州にいた多くの武田の家来も吸収して、独立の勢力を形成する準備をした。しかし破竹の勢いで甲州のみならず、上州までも占領した織田軍の前には如何とする術もなく、一時、織田方の部将滝川一益の配下に属することになった。
ところが武田氏滅亡からわずか3か月後、織田信長が本能寺で殺され、上信地方にあった織田方の部将が急ぎ帰京し、甲州・信州・上州は空白状態になると、越後の上杉氏、相模の北条氏、三河の徳川氏が競ってこの地方への領土拡張にのりだしてきた。
この本能寺の変後の昌幸の行動は、誠に迅速機敏、まさに規模こそ小さいが羽柴秀吉のそれにも劣らぬものがある。昌幸の狙うところは、出身地真田郷を含む上田・小県地方全体を支配する事であって、それが彼の長年の願いでもあった。上州沼田地方については同族の矢沢氏などにその経営を任せ、北方から東信濃に迫ってきた上杉氏については、書状を送って服属の意向を示して競合を避けたうえで、上田・小県地方の在地中小豪族の吸収に乗り出した。
    上田を根拠地とする
しかし北条氏の大軍が碓氷峠を超えて小県地方に迫ってくると、今度は北条氏に味方して、上杉氏と川中島で対峙。北条氏が矛先を変えて甲州方面を目指して引き揚げると、次には甲信に勢力を伸ばしてきた徳川家康に誓紙を送り、保護を求めて付き従うという有様であった。こうして昌幸が徳川方に属するようになった天正10年9月から、およそ1年の間に、上田・小県地方の大半が昌幸の支配下にはいるようになったのである。
そこで昌幸は、天正11年8月、上田盆地の中央、千曲川べりの要害の地に城を築き、この地方を支配する根拠としたのである。現在の上田氏の源はここに求められるのであるが、当時この城を、真田氏のかつての居城の名をとって松尾城、または千曲川の淵に面していたので尼ヶ淵城といった。
城下町の形成に当たっては、かつて海野氏の本拠であった海野郷と、真田氏の旧本拠であった原の郷からそれぞれ住民を招いて、海野町・原町を作るとともに(原町については関が原合戦後の可能性が高いが)、海野郷の鍛冶職人、紺屋職人を招いて、鍛冶町・紺屋町を形成させたという。現在でも上田の市街地では、海野町・原町はメインストリートをなしており、鍛冶町・紺屋町も健在である。
こうして天正10年以前までは、どちらかといえば上州沼田地方に中心勢力を持っていた真田昌幸は、以後、上田城にあって、上田・小県地方の経営に積極的に乗り出したのである。したがって「昌幸の領国経営」を考える場合には、上田・小県地方の土地政策や家臣団の支配体制を中心とすることになる。そしてまた昌幸の領国経営の卓抜さが評価され注目されるのは、彼が上田領の家臣団を率いて上田城に拠って、二度にわたって徳川方の大軍を打ち破ったり、撃退したという事実が背景にあるからである。
つまり上田領においては、領主真田氏を中心に、家臣団も農民も、城下町の町人も、寺社までもが一丸となって外敵に当たるという地理的・歴史的条件を持っていたのであり、それを十二分に生かす領国経営を、真田昌幸が確立していたということになるのだ。





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