真田家のルーツ ~軍用馬の生産者?~ |
滋野一族は、国営の牧の管理をしたり、その関係で渡来人との関係を深めたりと、農耕主体の生産活動とは少し異なった一族であったようだ。その滋野一族の小豪族であった真田氏もまた、古代には国牧の管理者であったという。その頃真田氏は真田町傍陽の実相院あたりを本拠にしていたのではないかと言われている。 傍陽は真田から地蔵峠を越えて松代に至る県道の登り口にある山峡の集落である。ここはまた菅平の麓にあたり、このあたり一帯に広がる牧の管理者として力を蓄えたのではないかと思われる。
その根拠として、真田町やその周辺には牧の平という地名がいくつか見られること、駒形神社が真田町の山家神社境内と、四阿山近くの群馬県側にあること、菅平に夏季放牧の管理者の住居跡とみられる遺跡が発見されたこと、などがあげられる。 要するに、国営の牧が真田の地にあり、菅平や四阿山の麓、群馬県の吾妻地方などが放牧地として充てられていた、そしてこの牧の経営にあたっていたのが真田氏の祖先であったというのである。 そして、戦乱の世になると、ますます馬は必需品となり、武田信玄が真田に注目したのも、真田の軍用馬の生産技術がほしかったのではないかと思われる。
真田の名が初めて史料に出るのは「大塔物語」である。応永7年(1400)のこと、信濃国守護小笠原長秀の入国を巡って、それを阻止しようとする国人領主たちとの間で激しい戦いが起こった。(大塔合戦) 戦いは川中島平南郡で行われ、国人領主たちが勝利した。この戦いの模様を記したのが「大塔物語」である。その「大塔物語」には実田(真田)・横尾・曲尾と言った武士が真田郷から参戦していることが記されている。また、永享10年(1438)の結城合戦には真田源太・源五・源六と名乗る武士が出陣したことが「真田町誌」にある。真田幸隆がこの真田氏の末裔であると考えるのは自然である。 清和天皇の末裔であるかどうかはともかく、真田氏の初めは、戦国時代信州小県の地に割拠する小豪族の一つであった。真田郷は中世から多くの有力な豪族が支配しており、それは真田氏を名乗っていたということが今ではわかっている。 |