真田家のルーツ
 ~軍用馬の生産者?~
 


 国牧の管理者だった?
滋野一族の祖は貞保親王ではなく、都の貴族が国牧の管理者として信濃へ下向し、土着した者であるとの説がある。古来より小県・佐久地方は朝廷に献上する馬の産地として有名であった。なかでも望月の牧は、信濃の国十六牧の筆頭に数えられていたほどである。紀貫之に「逢坂の関の清水に影見えて今や引くらん望月の駒」の歌がある。「望月の駒」はそれほどに都でも名が通っていたのである。
滋野一族は、国営の牧の管理をしたり、その関係で渡来人との関係を深めたりと、農耕主体の生産活動とは少し異なった一族であったようだ。その滋野一族の小豪族であった真田氏もまた、古代には国牧の管理者であったという。その頃真田氏は真田町傍陽の実相院あたりを本拠にしていたのではないかと言われている。
傍陽は真田から地蔵峠を越えて松代に至る県道の登り口にある山峡の集落である。ここはまた菅平の麓にあたり、このあたり一帯に広がる牧の管理者として力を蓄えたのではないかと思われる。
 国府があった上田
奈良時代、信濃国の国府は上田付近にあった。ここが信濃国の都だったのだ。事実、上田には国分寺があり、天平13年(741)聖武天皇の詔により建設されたものと推定される。そして、国府の近くには、軍事用あるいは運搬用の馬を飼育するための国営の牧が置かれるのが普通であった。それが真田町周辺にも置かれていたのではないか。
その根拠として、真田町やその周辺には牧の平という地名がいくつか見られること、駒形神社が真田町の山家神社境内と、四阿山近くの群馬県側にあること、菅平に夏季放牧の管理者の住居跡とみられる遺跡が発見されたこと、などがあげられる。
要するに、国営の牧が真田の地にあり、菅平や四阿山の麓、群馬県の吾妻地方などが放牧地として充てられていた、そしてこの牧の経営にあたっていたのが真田氏の祖先であったというのである。
そして、戦乱の世になると、ますます馬は必需品となり、武田信玄が真田に注目したのも、真田の軍用馬の生産技術がほしかったのではないかと思われる。
 大塔物語
やがて真田氏はその勢力を真田郷全体におよぼしていくのだが、それとともに本拠をもっと里側に移している。その場所は横尾、真田を経て、現在「お屋敷」と呼ばれているあたりが幸隆の時代の居館ではなかったかとされている。
真田の名が初めて史料に出るのは「大塔物語」である。応永7年(1400)のこと、信濃国守護小笠原長秀の入国を巡って、それを阻止しようとする国人領主たちとの間で激しい戦いが起こった。(大塔合戦)
戦いは川中島平南郡で行われ、国人領主たちが勝利した。この戦いの模様を記したのが「大塔物語」である。その「大塔物語」には実田(真田)・横尾・曲尾と言った武士が真田郷から参戦していることが記されている。また、永享10年(1438)の結城合戦には真田源太・源五・源六と名乗る武士が出陣したことが「真田町誌」にある。真田幸隆がこの真田氏の末裔であると考えるのは自然である。
清和天皇の末裔であるかどうかはともかく、真田氏の初めは、戦国時代信州小県の地に割拠する小豪族の一つであった。真田郷は中世から多くの有力な豪族が支配しており、それは真田氏を名乗っていたということが今ではわかっている。





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