真田家のルーツ
 ~真田家とは?~
 


 真田の郷
上田から菅平に向かう道筋に真田の郷はある。菅平高原は、スキー場として全国的に名の知られた観光地であり、日本有数の高原野菜の産地でもある。
しかし、その麓にある真田の郷は山国信州にあるごく普通の山村である。見上げれば四阿山、烏帽子岳といった2千メートル級の山々が背後に連なり、そんな高い峰の麓にわずかばかりの田畑が広がっている。
真田の郷は現在、上田市真田だが、2006年の平成の大合併までは長野県小県郡真田町であった。隣接する上田市と合併したのである。その旧真田町も、実は昭和33年(1958)に小県郡の長村、傍陽村、本原村が合併してできた町である。
かつては上田駅と真田町の間を、上田交通真田・傍陽線という小さな私鉄が結んでいたが、昭和47年(1972)に廃線となってしまった。終点の真田駅は旧長村の真田地区にあった。駅舎があった付近は現在農協となっており、そこから歩いて5分ほどの場所に山家神社がある。ここは、真田氏の産土神である。山家神社は小県に四社ある「延喜式内社」のひとつで、その由緒は古く、この地区の産土神であるとともに、加賀の白山社を合祀している。この山家神社は里宮で、奥宮は四阿山の山頂にある。四阿山は日本百名山のひとつで、修験の山として古くから信仰を集めていた。
 公式記録の中のルーツ
江戸時代に松代藩で編まれた歴史書「滋野世記」によれば、真田氏中興の祖といわれる真田幸隆は海野棟綱の嫡男、つまり海野氏の嫡流であるということになっている。
棟綱の嫡男である幸隆が真田郷に住み、真田姓を名乗ったというのである。一方で、海野氏の産土神の白鳥神社に伝わる史料では棟綱の娘の子、つまり棟綱の娘が真田頼昌に嫁ぎ、生まれた子が幸隆であるということが記されている。現在では、真田という名の豪族が古くから真田郷にいたことが様々な史料から説明されるため、後者の説の方が有力とされている。
「滋野世記」は、江戸時代になって松代藩で書かれた歴史書であり、幸隆を海野氏の嫡流としたのは、十万石の大名である真田家の系譜を由緒正しいものにしたいという意図が働いていたものと思われる。
海野氏は滋野一族の頭領を自認していた。滋野一族は、清和天皇の第四皇子である貞保親王が信濃国海野庄(現長野県東御市本海野)に移り住み、その孫の善延王が延喜5年(905)に醍醐天皇より滋野姓を下賜されたことに始まるとされている。
滋野氏はその後、領地である海野庄にちなんで海野を名乗るようになる。海野氏の初代は重道で、その子の代になって望月氏・禰津氏が分かれた。これを滋野三家と呼ぶ。
しかし、これらの話はあくまでも「される」という程度のものであり、そもそも海野氏が実際に清和天皇の子孫であるかどうかも定かではない。




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