真田丸攻防戦
 ~総攻撃を逆手に~
 


 「内応」を逆手に
東側の諸勢の攻撃からはかなり遅れて、松平忠直率いる越前勢や藤堂高虎の軍勢が、こちらは八丁目口から谷町口あたりの惣構えに対して攻撃を開始した。この攻撃は事前に工作されていた内応に呼応するもので、真田丸の戦闘の混乱で城内の石川康勝隊の兵が火薬桶を暴発させたとも、内応を看破した城方が、合図を偽って送ったとも伝えられるが、いずれにしても城内から狼煙が上がったものと思いこんでの攻撃だった。
堀際まで押し寄せた越前勢は、城内が騒然としたまま迎撃されないことから内応の成功を確信し、仕寄り盾を捨てて空堀内に兵を入れたが、これは信繁が指導したとも記される城方の欺瞞策だった。城方は空堀が寄手の将兵に埋め尽くされると同時に火蓋を切り、惣構えの狭間から一斉に射撃を開始したのである。
寄手も負けじと撃ち返すが、空堀の底から塀越しに城方を制圧するなど容易なことではない。仕寄り盾は塀際に置き捨てているため、城方の死角の塀の真下にへばりついてないと、無防備に近い状態で射撃に晒されることになった。
 信繁の計算
この日の攻撃で空堀に進めた軍勢のうち、井伊勢と藤堂勢だけはどうも仕寄り盾を捨てずにいたらしい。冬の陣終了後、この攻撃に加わった諸大名中、唯一井伊直孝だけは兄直勝に代わって家督を認められるという形での恩賞を受けた。また、夏の陣では、井伊勢と藤堂勢はともに先陣を命じられることになる。
このことから見て、両勢はこの日の戦闘での落ち度が少なく、他の諸将と共に家康に叱責されはしても、むしろ相対的に水際だった指揮ぶりが高く評価されることになったと判断できる。そしてその指揮ぶりとは、このとき露呈された仕寄りの手立ての甘さ、即ち盾の軽視にあったと考えるのが妥当であろう。
逆に、井伊・藤堂の両勢が崩れずに踏みとどまったことは、信繁の誘引作戦の中で障害となっていた。しかし、普通なら大きな誤算となるこの事態も、信繁にとっては計算に織り込み済みの障害の一つに過ぎなかった。堀に下りた将兵を囮にすることで後続の諸隊を誘い出し、それを有利な城内からの射撃で圧倒することにより、逐次進出してくる敵勢を各個撃破できるからである。
 関東勢撤退
戦況は信繁の読み通りに推移した。空堀内に兵を進めてしまった以上、孤立した見方を見捨てるわけにもゆかず、徳川方は嫌でも堀際まで兵を進めざるを得ない。入りきれずに堀際に残った将兵に後続の新手が加わり、惣構えに向かって猛然と撃ち返し始めると、大坂城南面では全線にわたって凄まじい射撃が応酬されることになった。
こうなると、惣構えの構造物に守られた城方と仕寄り盾に頼る寄手の優劣は、誰の眼にも明白だった。前線からの報告で寄手の不利を知った家康と秀忠は、諸勢に攻撃中止と撤収を命じた。
しかし、堀の中に取り残された将兵を救おうと躍起になっていた諸勢は、命令に即応できる状況にはなく、これを無視して射撃を続けたため、家康は三度にわたって撤収命令を繰り返さなければならなかったという。
未明の午前6時前後に始まった戦闘は、城方が乏しい弾薬を気にして発砲を控え始めたことから、午後4時頃になってようやく寄手が撤収に成功し、終息した。
この日の寄手の討死は、越前勢が馬上480騎、前田勢が300騎にのぼった。参戦したその他の軍勢を合わせると1万とも1万5千とも噂されるほどの大損害となったのである。おそらく実数は雑兵も含めて数千といった程度であろうが、それでも城方の圧勝であった。
その勝利は、真田丸の構造と地の利、即ち信繁が昌幸から受け継いだ戦術の勝利であり、かつて昌幸に衝撃を与えた長篠の再現だった。




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