真田丸攻防戦
 ~真田丸攻撃を撃退~
 


 前田勢の思惑
慶長19年(1614)12月4日の真田丸攻防戦は、徳川方の前田勢の行動によって開始された。前田勢は筆頭家老の地位にあった本多政重の下で行動を開始した。
本多政重は本多正信の次男で、関ケ原の戦いには宇喜多勢の中堅指揮官として参戦しており、戦後は福島正則に保護され、前田利長から高禄で招かれ、上杉家家老直江兼次とは養父子の関係にあった。幕府年寄の本多正信の実子ではあっても、関ケ原で西軍として参陣した過去は高禄での仕官の差し障りとなる。それを万石単位で諸大名が招き、あるいは養子縁組によって繋ぎ止めようとしたあたりに、将才が高く評価されていたことを窺いすることができる。
その政重の隊を先頭に前進する前田勢は、総勢1万2千のうちのほぼ半数だった。目的は真田丸の前哨陣地である篠山の攻略だったとされる。冬の陣が始まって以来、平野口に展開する徳川方は、篠山から撃ち下される鉄砲に悩まされてきた。が、その篠山を攻略するためとはいえ、たかが前哨基地を落とすためだけにしては大掛かりすぎる作戦行動だった。
それもそのはずで、4日の攻勢は城南に配置されていた他の徳川方諸隊も加わる総攻撃だったのである。前田勢の篠山攻略は総攻撃の準備行動で、真田丸攻撃の足掛かりを確保することが真の狙いだった。
だがこれは、城方に総攻撃を予告してやるようなものだった。大軍の行動の秘匿には限度がある以上、政重は自身の隊だけで速やかに篠山を奪取し、前田勢主力の接近経路を確保して惣構えまで前進させる必要があった。そうでなければ、総攻撃開始に大軍が活動状態にあることを暴露することになる。攻撃の成否は、前田勢が政重の命令で自在に展開できるかどうかにかかっていた。
 足並みそろわぬ前田勢
しかし前田勢には大きな問題があった。家老筆頭とはいえ、政重は慶長11年(1606)に正式に家臣になったばかりの新参者である。指揮下に配属されていた譜代の重臣を統制するにも限度というものがあった。
この年63歳になっていた山崎長徳は、朝倉家を皮切りに明智、柴田と渡り歩き、しかもその理由はすべて政重と同じ主家の滅亡だった。だが境遇は似ているが、年齢、軍歴、前田家に仕えてからの年月のいずれをとっても、長徳のそれは政重の遠く及ぶところではなかった。
親子ほどの年齢差に加え、その年で前線に立つというあたり、長徳が一筋縄では行かない人物であるということは明白だった。そしてほかの諸将にしても、政重に対する敵愾心は相当なものだったようだ。
統制上の問題を内包した前田勢は、未明のうちに攻撃位置に達し、政重の手勢は一斉に篠山に攻め上った。応戦はまったくなく、政重はもぬけの殻となっていた篠山を無血占領する。この段階で、政重ほどのものがこれを不信に思わないはずがない。早急に主力を前進させ、正攻法での総攻撃を開始すべき状況だった。
そして事実、これは攻勢を予見していた幸村が、真田丸に前田勢を誘い込むために仕掛けた罠だったのである。がしかし、前田勢は篠山の陥落と同時に先手から逐次前進を開始し、そのまま真田丸に向けて無秩序に突進した。政重の統制を嫌う諸将は、攻め口を政重に配分される前に持ち場を確保しようとしたのである。
この当時、山崎長徳のような老朽な武将ならいざ知らず、多くの侍大将には部隊指揮者としての実戦経験がほとんどなかった。30代でも関ケ原で初陣したばかりで、以降は戦そのものがなくなり、それ以下の年代に至っては戦語りでしか戦争を知らないのだ。理屈倒れや観念論ならまだしも、多くは血沸き肉躍る合戦のイメージを勧請的に吸収して育った血気盛んなだけの猪武者だった。
それゆえに、これから攻城戦に臨むはずの前田勢の中には、織田勢を追撃して「あるみ原」を突き進んだ武田勢のように猪武者の如く前進する者がいたとしても決して不思議ではなかった。
 幸村の罠
前田勢が持ち場を争って真田丸の間際まで押し寄せるという椿事は、幸村にとっては願ってもないことだった。真田勢の囮部隊が数回も発砲を繰り返すと、前田勢は堰を切ったように真田丸へ殺到した。
幸村の罠は、真田丸の構造それ自体にも仕掛けられていた。真田丸は半円形のいわゆる丸馬出だったが、その両側に幾重かの柵を設け、惣構えから角度の大きな浅い二等辺三角形が突出する形状になっていた。惣構えの堀と真田丸の堀との間の広がった二辺は、一見すると柵だけで防備された防御上の弱点となっている。寄手にとっては絶好の攻撃目標だった。
押し寄せた前田勢の多くは、この東側の柵を破って惣構えと真田丸の間に侵入し、満を持して待ち構えていた真田勢の伏撃を受ける羽目になった。惣構えと真田丸の両側から放たれる鉄砲の猛射に、もともと混乱状態で押し寄せた前田勢は大混乱に陥った。駆けつけた政重が配属された諸将を掌握しようとしたころには、前田勢の統制は中下級指揮官のレベルまで完全に失われた。
古参の武将が率いる部隊は惣構え側から撃たれることを避けて真田丸の空堀に兵を下ろしていたが、それ以外の諸隊はまとも両側から射撃を浴びて逃げ崩れた。空堀内の将兵を救うために塀際から鉄砲を撃ち掛けようにも、政重らの手勢は敗走する兵をかき分けるようにして前に出なければならず、前田勢は進む兵と退く兵が入り乱れてさらに混乱することになった。
前田勢は潰走しつつあったころ、真田丸の西側の柵でも似たような状況に陥っている軍勢があった。徳川譜代の精鋭であるはずの井伊勢であった。
 井伊勢潰走
この日、抜け駆けの功名を狙っていた井伊直孝は、前田勢が行動を起こすと同時に、井伊勢を惣構えに向かって前進させた。直孝は彦根井伊家の当主ではなく、当主である兄の直勝に代わって軍勢を指揮する陣代であった。わずか1万石で依然として部屋住み同然の境遇であった彼は、功名の最後の好機とばかりにかねてから狙っていたのである。
井伊勢が押し寄せた真田丸の西側は、真田勢ではなく長宗我部勢の持ち場だったらしいが、それによって寄手が有利になるというわけではなかった。前田勢と違って整然と柵を破った井伊勢も、やはり両側面から放たれる火力に対応しかね、一部は八丁目口の惣構えの空堀にまで押し入ったものの、それ以上はどうにもならなくなってしまった。
前田勢と井伊勢の間には、寺沢広高や松倉重政といった小大名が居並んでいたが、これらの部隊も前田・井伊に遅れじと前進、城南東側は予定の刻限を無視して無秩序ながらも数万の軍勢が押し寄せる大攻勢となっていた。
しかし前田勢や井伊勢ほどまとまった数の軍勢さえ行き詰った真田丸である。そこへ寄せ集め部隊が正面から押し出したところで焼け石に水であった。この部隊は猛烈な火力に射すくめられ、結局一歩も動けなくなってしまったのである。




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