真田丸攻防戦
 ~武田流ではない~
 


 昌幸譲りの戦法
敵勢を堅固な防御構造物の奥深くまで誘い込み、正面攻撃を誘って出血を強い、その背後を別動隊で驚かして撃破する。これが真田の御家芸とされる戦術のすべてである。味方の劣勢を逆手に取った弱者の戦術の神髄というべきものは、実はたまたま真田家の置かれた状況がそのようなものであっただけで、本質的なものではない。敵を誘致するための味付けに過ぎない。
「表裏比興の者」「稀代の横着者」などと評された真田昌幸は、この戦術に熟達することで二度までも徳川勢を撃破し、その息子の信之と信繁もまた、若くしてこの戦術に精通した。信之は徳川勢を破った最初の戦いである第一次上田合戦で別動隊の重責を果たし、信繁は第二次上田合戦で囮と伏兵の二役をこなしている。
しかし、この昌幸とその子供たちの戦術は、それ以前の真田家には見られないものだった。昌幸の父幸隆は謀将として有名だが、得意なのは調略や諜報で、戦術的な謀略を駆使した形跡はない。兄の信綱と昌輝にいたっては、およそ小細工とは無縁なタイプで、ともに山岳地で機動戦を得意とするスタンダードな戦術家だった。少なくとも幸隆・信綱・昌輝には、囮や陣地と関連付けた戦術を見ることはできない。
奏した真田家の戦術の特徴として認識されている部分は、実は昌幸の代になって獲得されたものだからである。
 信玄を見倣ったわけではない
それでは昌幸は、そうした特徴をいつどこで獲得したのだろうか。
昌幸は二人の兄と異なり、近習衆として武田信玄に仕え、そのまま本陣詰めの旗本足軽対象に取り立てられている。信玄に近侍したことでその影響を強く受けた昌幸は、信玄を師と仰ぎ、その尊崇の念は終生薄れなかった。
だが、信玄が好んだ戦術は、昌幸のそれとはかなり違ったものであった。信玄もまた別動隊による迂回攻撃を好んだが、その規模は全軍の五割を超えるほどの大規模で、昌幸が使うような主力の二割程度の別動隊は例がない。昌幸が実際に独自の戦術を構築する上で受けた信玄の影響というのはさほどのものではなかったようだ。領主としてはともかく、武将としての昌幸がその戦術に影響を受けたのは信玄以外の人物であった。もっともそれはほかの武田家の武将でもなく、関東甲信越の武将でもない。昌幸が最も大きな衝撃と影響を受けたのは、織田信長と武田勝頼が天正3年(1575)5月21日に戦った長篠合戦だった。昌幸がこの戦いで受けたインパクトは想像を絶するものがあった。
 長篠の合戦で受けた影響
この戦いで武田勢は、信長のほうから仕掛けてきた攻撃に釣り出されてきた形跡がある。2日にわたる戦闘の末に勝利し、後退する織田・徳川勢を追尾して、「あるみ原」に誘致されてきたのである。
このときすでに「あるみ原」の西端は、数日前に始まった野戦築城によって城塞化されており、一転して武田勢は攻城戦を強いられる羽目になった。正確に言えば、「攻城戦」を「追撃戦」の状態で戦わなくてはいけなくなったのだ。
連子川を挟むふたつの尾根は川に面した内側が削平され、西側の尾根だけでなく、東側の尾根も切岸が続いていた。断崖となった東西の尾根に挟まれた武田勢は、巨大な空堀の底に引きずり込まれたも同然だった。追撃戦のつもりでろくな攻城戦装備も持たなかった武田勢主力は、前面を織田・徳川勢主力に、背面を酒井忠次ら率いる別動隊に抑えられ、それぞれの敵を攻撃して隔離してからでなければ、撤退できない状況にお追い込まれた。
織田・徳川勢の鉄砲の有効射程でほぼ完全にカバーされた二つの尾根の間での行動を余儀なくされた武田勢は、多数の死傷者を出して急速に消耗し、後方の長篠方面救援に向かう穴山信君・武田信光らの後備を裏崩れと見誤って敗走した。
 上田合戦で見せた真価
それから約10年後に勃発した第一次上田合戦の推移は、長篠合戦のそれと驚くほど似ている。狭隘な地形の奥の城塞に敵を誘致し、正面攻撃を誘って消耗させ、別動隊がその背後を急襲して敗走に追い込むという、まさに長篠そのものだった。
そして第二次上田合戦でも、その流れは別動隊の役割を伏兵が担った点を除けば、大筋で踏襲された。昌幸は長篠の敗戦で得た教訓をもとに、劣勢で大敵を敗退させる独自の戦術を確立していたのだ。そしてこの戦術はほぼ完全な形で信繁に受け継がれた。
 真田丸構築
大坂に籠城した信繁が最初に行ったのは、平野口に出丸を構築することだった。いわゆる真田丸である。
真田丸は甲州流築城術でいうところの丸馬出であるとされるが、実質的には単独で機能する小城塞で、当時の西洋築城術でいう突角堡に近い機能をも併せ持っていた。大坂城の惣構えを直接攻撃させず、出丸それ自体で敵を支える作りになっていたのである。
一般に大坂城の南面は防御上の弱点とされているが、平野口方面は岡山に向かって急激に地形が落ち込んでおり、南に向かってなだらかに下っている上町台地の東縁が真田丸の手前だけ大きく食い込む形になっているため、一概に弱点とは決めつけられない。谷町筋から現在の近鉄上本町駅方面にかけての急勾配は、平野川沿いに北上する軍勢の接近を惣構えから隠蔽することになったが、同時に寄せ手の軍勢も惣構えまでの視界を遮られることになる。
真田丸はまさにその接近経路の突き当りに構築され、篠山は谷底から急こう配を登り切った頂に位置していた。寄せ手の接近経路が惣構えから隠蔽されているというのは、小城であれば命運を左右しかねない弱点になったが、大要塞である大坂城は,高層の櫓が周囲を監視し、寄せ手の動きは手に取るように見て取れた。
接近経路が隠蔽されることによる寄せ手のメリットは、せいぜい射線が遮られることで、城方の射撃範囲が制限されていることくらいだった。逆に城方には、迎撃態勢を攻撃直前まで秘匿できるというメリットがあり、それは接近経路で寄せ手にダメージを与えられないという欠点を補って余りあるものだった。
しかも周辺の地勢まで含めた真田丸の構造は、上田城に酷似していた。平野川と上町台地に挟まれた街道筋は、千曲川と染谷台の麓を流れる蛭沢川に挟まれた北国脇往還の隘路と同様に機能し、長篠の戦で連子川の両岸に施された野戦陣地に至る「あるみ原」と同じ機能を持っていた。
真田丸はその存在により重要な大坂城を防御するだけでなく、それ自体が隠蔽された防御構造物だった。つまり真田丸は、一見すると城外に突出して孤立した脆弱な砦に見えて、その実、攻撃ルートが大きく二つに分断され、大軍で攻めようとしても、協調が難しい地形に構築されていたのである。そして慶長19年(1614)12月4日の真田丸攻防戦は、まさにその通りの展開となった。




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