1・真田昌幸の出自と系譜 大塔物語の真田氏 |
大塔物語 |
江戸時代に真田氏によって作成された系譜では、真田氏は海野氏の嫡流であり、昌幸の父幸隆のとき真田に居を移した為、その地名を取って「海野」より「真田」に改姓したとしている。それぞれの系図によって異なっている点もあり、幸隆は海野宗家の惣領棟綱の長男であるとも、次男であるとも、棟綱の嫡子幸義の子であるともいうが、いずれにせよ幸隆が海野氏の正系を継いでいるとなっている。 幸隆の父とも祖父ともされている海野棟綱は、天文10年(1541)甲斐の武田信虎と諏訪の諏訪頼重および隣接する村上義清という三者連合軍の攻撃を受け敗北、その子幸義は討死し、棟綱は上野へ逃亡、関東管領上杉憲政に救援を求めている。そして、これを最後に棟綱の消息は全く途絶えてしまう。海野宗家は滅亡してしまったのだ。なお、この時真田幸隆も、やはり上野へ逃亡したものと考えられている。 戦国時代末期から幕末まで、武名を天下に轟かせた真田氏であるが、幸隆以前の真田氏についてはほとんど史料が残っていない。真田氏の名がみえる最古の文献は、応永7年(1400)に信濃守護小笠原長秀と、東・北信濃の武士団である国人との間で行われた大塔合戦について記した「大塔物語」である。これは軍記物ではあるが、合戦後間もない時期の成立らしく史実にもかなり忠実で信ぴょう性は高いとされている。 「大塔物語」の中に禰津遠光配下として「桜井別府小田中」という現在の東部町の地名を名乗る者たちに続いて、「実田横尾曲尾ノ人々」が記されている。「実」に「サナ」と振り仮名がある事、横尾・曲尾ともに同じ真田町内にその地名があるところから、この「実田」は真田であり、真田氏の祖先であろうと考えられている。 |
結城合戦 |
「大塔物語」以後の真田氏については、幸隆の出現まで、その動きは全くと言ってよいほど不明であった。その間の真田氏の動静をうかがわせるものとしては、ただ一つ「信陽雑志」に見える永享12年(1440)からの結城合戦についての記事が知らされているだけだったのである。これには、幕府軍に加わって結城城(茨城県)を攻めた信濃勢の中に「真田源太・同源五・同源六」がみえる。しかし、この「信陽雑志」は江戸時代の著作物であり、残念ながらその信憑性については疑問符がつく。 なお、結城合戦とは室町将軍足利義教に反抗した鎌倉御所足利持氏が滅ぼされた永享の乱に続いて起こっている。持氏の二人の遺児を奉じた結城氏朝らが挙兵、結城城に立てこもり、これを取り囲んだ幕府勢との間で、1年余にもわたって繰り広げられた大きな合戦である。 この戦いについて記した「永享記」に出てくる真田氏について、平成10年に刊行された「真田町誌歴史篇(上)」に、桜井松夫氏による研究が発表されている。それによると、この戦いで結城城に籠城したが、討死し首を取られた武士の中に「真田」と称する者がいたのだが、これは真田町の真田氏と考証されるという。 信濃守護小笠原政康(長秀の弟)に率いられた信濃勢についての「結城陣番帳」の存在でも知られるように、信濃の武士は多くが幕府側に加わったのだが、同じ信濃でも佐久の大井氏・芦田氏のように結城方についたものもいたのだった。永享の乱以前、信濃の武士は室町将軍に直属する者もあれば、鎌倉公方に属する武将もあり、同じ一族でも惣領家が幕府に、庶家(分家)が鎌倉府に、あるいはその逆にといったように、従属関係は入り組んでいたという。 |
真田氏は真田の地の土豪であった |
結城合戦において、結城方つまり反幕府方に属して戦死したという真田氏がいたことは明らかにされたのだが、あるいは「信陽雑志」でいうように、幕府方として参戦した真田氏もいたのかもしれない。いずれにせよ、ここで応永の大塔合戦後、約40年経過したこの時点でも、引き続き真田氏が存在したことが、新たに明らかにされたわけである。これにより、真田氏は古くから真田の地に土着していた土豪であることは、ますます確実になってきたといえる。 真田町真田の北東に聳える山の尾根上に真田氏の山城と伝わる松尾城がある。その麓の日向畑地籍は真田氏初期の居館跡ではないかと考えられ、しかも真田区内の長谷寺に移る前の真田氏の菩提所であったという常福院も同地籍にあったと伝えられている。ここで、昭和46年に五輪塔や宝篋印塔を墓標とし、火葬骨を治めた墳墓群が発掘された。この墓跡は室町時代から戦国時代にかけてのものとみられており、幸隆以前の真田氏の一族の墓地ではなかったかと考えられている。 |