信玄の侵攻作戦 ~佐久侵攻戦~ |
これは、武田軍が破竹の快進撃をしたことを称えているのだが、同時に佐久地方には信虎の前に立ちはだかる有力な在地領主がほとんどいなかったことをも証明している。この地で一番力がある在地領主といえば大井氏だったが、大井氏は早い段階で信虎に屈服しており、武田軍はあたかも無人の野を行くような状況で佐久に侵攻していったことがうかがわれる。 だが、翌天文10年に父信虎を追放して家督を奪った信玄は、何故か信虎が推進していた佐久侵攻路線を捨て、諏訪へ侵攻していった。そのため、しばらくの間佐久は安泰であった。が、天文12年9月9日、長窪城の大井貞隆が村上義清の支援を受けて信玄に反旗を翻したことから、信玄は大井討伐の軍を組織し、信玄自ら五千の兵を率いて長窪城を攻め、貞隆は甲斐へ送られ殺されてしまう。 そして天文15年5月、今度は貞隆の子貞清が内山城に籠って反武田の色をはっきりさせたため、再び信玄は佐久侵攻を行った。もっとも、このとき内山城は武田の大軍に包囲され、兵糧攻めにあって貞清は信玄に降伏している。
佐久は上野国と国境を接しており、上野国とのつながりを無視できない場所であった。事実、天文16年閏7月から8月にかけて、信玄が志賀城を攻めたとき、清繁は後詰めを上野国平井城の上杉憲政に要請しているのだ。 上杉憲政は家臣の金井秀景を総大将とする3千の大軍を後詰めとして送ってきた。その情報をすかさず掴んだ信玄は、籠城兵と後詰めの軍勢によって挟み撃ちにされる前に、後詰めの上杉軍を倒すのが先決と考え、二千の兵で志賀城を包囲させたまま、残る五千の兵を上杉軍迎撃に向かわせたのである。 戦いは8月6日、浅間山麓の小田井原というところで行われた。五千対三千という兵力差が物を言い、武田軍の圧勝に終わった。 しかも信玄は、討ち取った三百の首を志賀城に運ばせ、生首を城の廻りに架けさせ威嚇しているのである。後詰めの兵がそのようになってしまった以上、志賀城兵が助かる道はなく、男たちは狂気のように城外に打って出て皆討ち取られてしまった。 しかし、志賀城の戦いはそれだけでは終わらない。城内に取り残された女子供はすべて生け捕りにされ、甲府へ運ばれ、安い者で二貫文、高い者で十貫文程度で売られているのである。 信玄としては本格的に信濃の攻略をするにあたり、「俺に抵抗すればこうなるぞ」という脅しのために使ったということなのだろう。いわば見せしめ的な作戦であるが、むしろこれによって反武田戦力が結集し、信玄がその後一時的ではあるが窮地に追い込まれ、その後の上杉謙信との死闘を招いたという側面も否定できない。
天文17年1月18日、義清は兵を率いて佐久へ進み、佐久を占領した武田軍を追い出しにかかった。信玄も志賀城を落とした勢いで、2月1日7千の兵を率いて甲府を出立している。 このとき、信玄はいったん諏訪に出て、諏訪から小県郡の長窪に抜ける大門峠を超えて、小県に出ている。義清の方は千曲川べりを南下してきており、両軍は上田原で衝突した。これが上田原の戦いである。 信玄は7千、義清はやや少ない数だったようだが、力はほぼ互角であった。だが、2月の信州は一番寒いときであり、そのうえ武田軍は長途の遠征ということで疲れがあり、地形は村上軍のほうが良く知り尽くしていたという利点があった。 戦いは2月14日に繰り広げられた。緒戦は武田軍が有利に展開し、信玄の先鋒であった板垣信方隊は村上軍の第一陣を突破している。ところが、結果的にはこの第一陣突破が裏目に出た。板垣信方は、第一陣突破に気をよくして、さらに突き進んでしまったのである。つまり村上軍を深追いしすぎたため、かえって包囲され、討ち死にしてしまう。 板垣信方討死の報は、村上軍を勇気づけ、逆襲に転じた。武田軍は防戦一方で、乱戦の中、甘利虎泰・初鹿野伝右衛門らが戦死し、七百余人を失うという事態となった。信玄自身も槍で左腕に傷を負い、生涯初めての大敗北を喫している。 だが信玄は、すぐに兵を撤退させなかった。下手に撤退すれば、村上軍に付け込まれて本国甲斐も危うくなる。もっとも村上軍にも犠牲が多く、信玄を力で押し返す余力まではなかったようだ。 3月5日になり、信玄はようやく諏訪の上原城まで兵を引き、26日に甲府まで帰っている。佐久では4月から義清の策動が始まり、4月25日には、武田軍の佐久における拠点である内山城に放火したり、その攪乱を始めている。 信玄が再び佐久の奪還にとりかかるのは、その年、塩尻峠・勝弦峠の戦いで小笠原長時を打ち破って以後である。 |