島左近と石田三成
 ~三成の逸話の真偽~
 


 江戸時代成立通説の嘘
石田三成と島左近tの関係に触れる前に、石田三成に関する江戸時代成立の通説について、その根源に立ち入って再検討を加える必要がある。
まず、三成と秀吉の出会いについて。一般的な通説では、「三成は13,4歳の頃、口減らしのため近くの寺に預けられ、その寺を訪れた秀吉が茶を所望した時、優れた気配りで三服の茶を献上した。その気配りに感じ入った秀吉が、その寺の住職に命じ、小姓として召し抱えた」とする「三献の茶の故事」がある。
ところが、三成嫡男・宗享禅師(重家)が生前記録し、その後の文政8年(1825)7月、妙心寺寿聖院十世・清州和尚が再録した「霊牌日鑑」には、全く異なる記録が残されている。
「秀吉公、播州姫路に在城の砌、左京宗成(三成)18歳也しか、秀吉公名将たるを聞きて行って奉仕せん事を願う。秀吉公宗成の由緒、才智、謀慮あることを知りて3百石にて召し出される」と。
すなわち、その年代も、場所も、動機も、全く異なるのである。
三成の世評が確立したのは江戸時代の中後期であり、「霊牌日鑑」は出家した三成の嫡男が記録したものである。史料の重さから考えれば、当然、嫡男が記した記録が真実を伝えていることになる。
  三成を貶める徳川史観息子
では何ゆえに「三献の茶の故事」のような物語が創作されたのであろうか。
この内容を読む限り、この故事は決して好意を持って創作されたものではない。すなわち、「茶坊主上がりの小賢しい三成像」を印象付ける伏線として創られた物語である事は間違いない。そしてこの物語は「三成色小姓論」へと発展する。
また、三成と島左近の出会いについても同様である。今日に伝えられる通説は、天正の末頃、三成が水口城主4万石の頃、1万5千~2万石の高禄を持って招いたことになっている。
しかし、「水口町史」では三成の水口在城の痕跡がまったく存在しないと述べている。しかも、天正末年に三成は、すでに佐和山城主(10万石)に封ぜられており、これもまた創作された物語と思われる。
結局、これらの物語も「軍事に疎い三成像を印象付けるため、高名な武将・島左近を招くのに金に糸目を付けなかった」とする「三成文弱論」の伏線として巧妙に作り上げられたものと考えられ、決して真の意味での三成の美談として書かれたものではない。
  優れた軍略家の三成息子
三成の戦下手の例とされる、天正18年(1590)の忍城の水攻めも、実は三成の発議によるものではなく、秀吉の命によるものであり、その時三成は逆に「この作戦のため士気が低下している」と嘆いているほどである。さらに6月下旬、忍城攻めに加わった浅野長政に対しても、秀吉は水攻めの指示を出している。
結局、この作戦は三成が提案したものではなく、秀吉の命に三成は不本意ながらも従わざるを得なかったという事である。
逆に三成は戦略家として数々足跡を残している。越前柴田攻めのときの情報収集を称名寺に命じたほか、上杉家との連携による挟撃戦略を提案。第一次朝鮮侵略のときには李如松の率いる大軍に対処するため、延び切った戦線を碧蹄里に結集、勝利に導いたのも彼の発議であった。
このように一次資料を基に検討を加えれば、江戸時代に創られた三成に関する逸話には、好意をもって書かれた美談は存在しないという事である。




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