中世の大和椿井城主(奈良県生駒郡平群町)に島氏があり、「多門院日記」には、この地の「庄屋」が裕福である事、その「庄屋」が永禄10年(1567)6月21日に父・豊前守や養母ら9人を殺害して城を奪取した事が記されている。島氏は西宮城も領有していたが、地元には左近が椿井の出身で、この庄屋が左近本人との説がある。西宮城跡に近い安養寺に左近内儀(妻)の位牌がある。
近江飯村(滋賀県坂田郡近江町)の中世の領主に島氏があり、この地の島若狭守の子が左近で、左近はのちに石田三成に仕えた。関ケ原の戦いの後、飯村の島氏は左近の裔であるため、徳川方の追及を避けて他国に移住した。
左近の出身地を対馬とする説がある。対馬の島氏は名族・宗氏のわかれで、中世文書にも島姓の人物が見える。左近は、この島氏の出身で、大望を抱いて上方へ行き、筒井家、ついで石田三成に仕えた。関ケ原の戦いの後の左近の消息はわからないのだが、長崎県小県郡美津島町島山と同郡厳原町の海岸寺に左近の墓碑と称するものがある。なお、島山の左近の墓碑の周辺に咲く彼岸花を地元では左近花と呼んでいる。
なお、対馬には左近を主人公とした昔話も伝えられている。阿須川の河童がすみかの入り口を大岩で塞がれて困っている時、左近が見かねて大岩をどかした。河童は恩返しとして左近に怪力を与えたという内容のものである。
島左近や明石掃部のような、関ケ原や大坂の陣で大奮戦したものは、何処の馬の骨やらわからないという主張もある。
永正年間(1504~21)の信濃小嶋村(長野県松本市)の井河城主に、小笠原氏の一族の武将・島左近がいた、という説がある。ただし、これは井河城を現在の松本城の場所に移した武将・嶋立(廣野)右近と、石田三成の重臣の左近とを混同したものである。実在の左近は井河城とは無関係で、当然、嶋立右近と左近は全くの別人である。
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