島左近の実像
 ~織田信長軍に従う~
 


 織田軍に従軍する
天正3年(1575)4月2日、本願寺顕如が織田信長に抵抗した。同月6日、筒井順慶は信長の命で郡山城から出陣し、14日、総大将明智光秀の下で石山本願寺(後の大坂城)を攻めた。同月21日、郡山城へ帰った。左近は常に順慶に従軍したことと思われる。
7月11日、順慶は信長の命で越前一向一揆討伐に出陣するため、奈良の春日社に参拝し、大神楽を奉納した。戦勝と筒井軍の武運長久祈願であった。左近の姿ももちろんあったであろう。8月9日、順慶は5千の兵を率いて明智光秀軍に従い、越前へ向けて出陣した。柴田勝家・佐久間信盛・滝川一益・羽柴秀吉・明智光秀・丹羽長秀らの織田軍3万余が越前へ攻め入った。殺された一向宗門徒2千余人、捕虜1万3千余人と「信長公記」は記ている。捕虜も後に斬首されたとのことである。10月8日、帰国した順慶は春日社に参拝し、神に加護を謝した。
天正4年4月10日、本願寺顕如は足利義昭・毛利輝元らと反信長体制を確立した。信長は直ちに光秀・順慶らに、石山本願寺攻めを命じた。こうして天正8年までの5年間、凄絶な戦いが展開されることになった。5月3日、織田軍は本願寺の支城木津砦を攻撃中、大和国守護原田直政が討死している。5月10日、信長は討死した原田直政に代わって順慶を大和国守護に任命した。
  春日社に灯篭を寄進息子
天正4年2月13日、信長は雑賀一揆衆攻めに美濃・尾張・伊勢・近江と畿内の軍勢を大動員した。順慶は明智光秀・滝川一益・丹羽長秀らとともに海岸沿いに雑賀城を攻めた。織田軍10万に対し、鈴木左太夫・孫市父子を棟梁とする雑賀衆わずか3千では、とても勝ち目はなかった。棟梁鈴木左太夫は自害し、織田軍の軍門に屈した。雑賀衆は雑賀庄を根拠地とし新兵器鉄砲を有する集団で、忍法集団でもあった。順慶は2月25日帰国している。
天正5年4月22日、左近は春日社に石灯篭を一基寄進している。総高201センチのもので、春日大社本殿南門に向かって西側にあるという。左近38歳のときであった。
嶋家は昔、春日神社の神人、すなわち神事や社務などを補助する家柄であった。そのため信心深い左近が灯篭を寄進することになったのであろう。
  播磨へ出陣息子
天正5年8月17日、松永久秀は織田信長に抗して信貴山城に立て籠もった。上杉謙信の能登侵攻で、織田軍の主力柴田勝家・羽柴秀吉・丹羽長秀らが北陸へ出陣しており、畿内が手薄になっていた。さらに本願寺顕如との密約もあっただろう。
能登七尾城は9月15日、謙信の軍門に屈した。柴田勝家を総大将に前田利家・佐々成政ら織田軍4万8千は、加賀手取川で謙信を待ち伏せた。だが謙信は9月13日これを打ち破り、織田軍は10月3日安土へ引き上げた。
ここで織田軍は、総力を挙げて松永久秀が立て籠もる信貴山城攻撃にとりかかった。総大将織田信忠のもと、細川藤孝・佐久間信盛・羽柴秀吉・明智光秀軍に順慶も加わった。順慶は細川藤孝・明智光秀らと信貴山城の支城片岡城を攻めた。左近も従軍したであろう。10月1日、籠城兵150余が討死して落城した。織田軍は総力を挙げて信貴山城を攻め、10月10日、松永久秀は茶壺「平蜘蛛を打ち砕き、切腹して果てた。
翌天正6年4月27日、順慶は信長の出陣命令を受けて参陣した。6月27日、織田信忠を総大将に、織田信孝・細川藤孝・佐久間信盛・順慶らは神吉城を攻めた。7月20日落城し、22日順慶は筒井城へ帰った。12月11日、順慶は信長から別所長治の立て籠もる三木城攻撃軍に加わるよう命じられ、参陣した。天正7年1月3日帰城した。
間もなく信長から出陣命令が下り、4月10日、羽柴秀吉軍に属するため播磨へ出陣した。有馬郡についで西丹波に転戦し、福知山城・氷上城を攻略した。
順慶は天正8年8月17日、信長から郡山城以外の大和の諸城を破却するよう命じられた。そこで11月12日、筒井城を破却し、郡山城へ移った。順慶は大和に6万石、松永久秀の旧領10万石を合わせて16万石、のち柴田勝家滅亡後、河内で2万石が加増になった。




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