島左近の実像
 ~筒井順慶に仕える~
 


 筒井順慶
筒井順慶の父順昭が筒井家の家督を継いだのは、天文4年(1535)12歳のときであった。左近が天文9年生まれとすれば、その時順昭は17歳であったことになる。天文18年3月3日、順慶が誕生した。父は順昭、母は筒井一族の山田道安順貞の妹大方であった。幼名は藤勝、藤政、得度して陽舜望順慶と号した。
父順昭は大和国の殆どを制圧することに成功したが、天文20年6月20日、28歳で急死した。順慶3歳、左近12歳のときであった。順慶が相続した筒井城は大和郡山市筒井町に位置する平城であった。
順慶は元亀元年(1571)筒井城の大修築を計画し、天正7年(1579)8月、多聞山城の石を運んで工事を進めた。ところが翌天正8年9月、織田信長の命によって郡山城を残して、筒井城など大和の諸城を破却した。順慶は天正9年より築城工事を開始し、天正11年4月に天守を築いた。
幼い順慶を盛り立てたのは、一族の筒井順政、福住宗職・順弘父子、慈明寺順国、箸尾高春、片岡春利、山田順清、井戸良弘、布施左京進らや、重臣松倉右近勝重、島左近清興らであった。松倉右近は、島左近とともに「右近・左近」と称された。
  松永久秀との戦い息子
永禄元年(1558)6月21日、順慶は左近ら家臣200余人を従え、奈良の春日神社に参拝し、旱魃に悩む農民のために中臣祓いをしている。
左近はいつごろから順慶の下で各地へ出陣したか不明だが、常に順慶と行動を共にしたと思われる。順慶の父順昭が死去した頃、三好長慶は河内・摂津・和泉を勢力圏とし、大和進出を窺っていた。
永禄2年、三好長慶は重臣松永久秀に信貴山城を築かせ、大和進出に乗り出した。そこで左近は筒井軍の先陣として、松永久秀と十数年わたって戦うことになった。久秀は永禄3年、多聞城を築いて大和支配の拠点とし、信貴山城を詰めの城とした。多聞城の名は、塁上に多聞櫓を建設した事に由来する。
永禄8年(1565)11月、松永久秀は筒井城を急襲し攻略した。敗れた順慶は一族の布施左京進の布施城に逃れ、抗戦した。こうして左近も椿井城・西宮城を本拠地に、松永軍と戦うことになった。
翌永禄9年6月8日、順慶は筒井城を奪還した。以後、大和国内で松永軍と攻防を展開してきたが、元亀2年(1571)11月1日、明智光秀の仲介で和睦した。ところが元亀3年4月より両軍が交戦に及んだ。15代将軍足利義昭の権謀により朝倉義景・浅井長政・武田信玄・本願寺・松永久秀の対織田信長包囲網の完成である。一方、信長は天正元年(1573)7月18日、将軍足利義昭を追放する。順慶は織田軍とともに松永久秀が籠もる多聞城を攻めた。久秀は城を明け渡し、信貴山城へ後退した。




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