1・島左近とは
その出自

    島左近の謎
島左近は、石田三成の参謀として活躍、「鬼左近」と異名を持つ。名は清興、勝猛など複数伝わってくる。
左近の生年や出生地などは不詳である。天下分け目の戦いである関ケ原の合戦で、石田三成を補佐し活躍したほど有名な人物であるにもかかわらず、その人物像は謎に包まれている。生年が不明の為、何歳で没したかもわからない。「名将言行録」に「当時称して鬼左近と言ふ。慶長5年9月15日戦死、年61」とある。信憑性が低い資料だが、手掛かりの一つにはなる。
仮にこれが事実だとすると、慶長5年(1600)当時で61歳であれば天文9年(1540)生まれということになる。永禄3年(1560)生まれの石田三成より20歳年上、天文18年(1549)生まれの筒井順慶より9歳年上、天文11年(1542)生まれの徳川家康より2歳年上となる。
    大和国の出身
島左近の生国について、大和説、近江説、尾張説、対馬説などがあるが、やはり大和説が最も妥当性が高い。
嶋氏は鎌倉時代末期に平群谷を本拠地として武士化(国人)し、奈良興福寺の一乗院坊人となった。平群は奈良県生駒郡平群町である。北に生駒市が、東に斑鳩町が、南に三郷町があり、西に生駒山地がある。
「平群町史」によると、「嘉暦4年(1329)春日行幸の設備用竹の在所注文に「平群嶋春○」とその名がみえる」とある。嶋氏が文献に登場する初見である。島左近の祖先と考えられることから、左近は大和出身ということになる。嘉暦4年の記事から、嶋氏は春日神社の神人(神事の補助、警備に当たる人々)でもあった。
「大乗院寺社雑事記」康正3年(1457)4月28日の条の「一条院家御坊人名字依次有記之」のうちに筒井・井戸・越智・布施・箸尾などとともに「嶋」が見える。同じく文明14年(1482)12月30日の条の「大和衆官領方引汲」のうちにも「嶋」と、延徳3年(1491)12月30日の条の「平群嶋・木津執行祖父入滅云々」とある。一乗院も大乗院も興福寺の多くの院坊の一つであったが、大きな勢力となり、摂関家から子弟を迎えて門跡と称した。「大乗院寺社雑事記」は、興福寺大乗院第20代門主尋尊の日記である。
応仁の乱(1467年)がおこると、嶋氏は国人筒井氏に属し、東軍(畠山政長軍)となり、西軍と戦った。筒井氏は添下郡筒井村の出身、大神氏の後裔で、興福寺の雑務検断職に任じられて勢力を持ち、筒井城を本拠地とした。

    平群谷を本拠とする
嶋氏は平群谷の椿井城・西宮城を本拠地とした武士であった。椿井城跡は平群町椿井に位置する標高230mの山城で、嶋氏代々の居城であったが、戦国時代、島左近が戦略的な山城に大普請したものである。平群谷を支配するうえで、椿井城の地は交通上の要衝にあった。松永久秀の信貴山城と対峙していたので、椿井城は筒井氏の防衛上の拠点となった。
西宮城跡は平群町西宮に位置する標高92mの丘城である。嶋氏は西宮城を本拠地として、椿井城を要害(詰の城)としたのだろう。
信貴山城跡は平群町信貴畑に位置する標高43mの山城である。大和・河内両国を支配するのに最適の地で、軍事的要衝であった。楠木正成が築城したと伝えられる名城である。永禄2年(1559)に松永久秀が入城してから大普請が加えられた。信貴山城跡の南東中腹、平群町信貴畑に真言宗信貴山寺がある。「信貴の毘沙門天」「信貴の毘沙門さん」と呼ばれ親しまれている。醍醐天皇の御病気平癒祈願で霊験があり、朝護孫子寺の勅号を賜った。楠木正成や武田信玄・上杉謙信も武運長久を祈念して、本尊信貴山毘沙門天(多聞天)をあつく信仰した。寺には国宝の「紙本著色信貴山縁起絵巻」が所蔵されている。
西宮城跡の北方、平群町下垣内の真言宗安養寺に島左近の内儀(妻)の位牌が祀られている。左近と西宮城との関連を物語るものである。黒漆塗り、高さ約30㎝で、表に「安養寺殿安耀真栄大姉」、裏に「天文18年9月15日 島佐近頭内儀」、と書かれている。左近が天文9年生まれとすると、天文18年は左近10歳となり、妻とは考えにくい。左近の母の位牌と考えたほうが妥当ではないか。
左近の父は豊前守といい、奈良興福寺の持宝院を建立したと伝えられている。「和州諸将軍伝」によると、「天文23年甲寅正月五日、藤勝始テ春日ノ礼二詣テリ(略)嶋氏ノ作外持宝院へ立入暫時休息ス」とある。明治の廃仏毀釈で取り壊されてしまったが、現在の奈良国立博物館近くの飛鳥園の位置にあったという。





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