幕府を作り上げた人々 ~酒井忠勝.1~ |
寛永12年(1635)10月には、家光側近の六人衆(若年寄)の松平信綱・阿部忠秋・堀田正盛の3名が正式に土井利勝・酒井忠勝とともに連署の列(老中)に加わって、家光政権の幕府首脳の新陣容が整備され、幕閣の体制が出来上がった。翌11月には老中・若年寄を含めた各役職の細かい職務分掌が定められ、早速活動が開始された。そして12月には老中酒井忠勝と土井利勝の名で幕府の評定所の条例が公布されている。また新首脳部と機構ができてから3年目の寛永15年に大老の職が設けられた。こうして家光の寛永政治において大老・老中・若年寄の幕府の中枢をなす幕閣の組織が整えられたのである。しかし、大老は常置の職ではなく、若年寄も制度的には未熟なものであったから、はじめは老中政治が幕閣の中心をなしていた。こうして幕政の運営は、老中の権限と機能が強まると、家康・秀忠の時代に見られた大御所側近の多彩なブレーンによって運営された初期の幕府政治は一応終結し、役方が次第に重視されていくようになった。これによって将軍家光の寛永政治は、まさに幕府の政治機構と政治運営の基本原則が確立し、幕府権力が一段と整備・強化された時期という事ができる。 こうした寛政期を中心に、家光の将軍就任当初から家綱の初政まで老中・大老として32年間に及び幕閣の重鎮として活躍したのは酒井忠勝である。家光は生前、よく「私ほど果報な者はいないであろう。右の手は讃岐(酒井忠勝)で、左の手は伊豆(松平信綱)」と左右の手にたとえ、忠勝と松平信綱に深い信頼を寄せていた。
忠勝の初陣は関ケ原の戦いで、父忠利とともに秀忠の下で中山道を上り、信州上田城の攻略に加わっている。慶長14年11月には従五位下讃岐守に叙任しているが、この年、父忠利は駿河国田中城から武蔵川越城に移り、幕府の大留守居の役職についている。さらに元和2年(1616)には世子竹千代(家光)の補佐の臣となっている。そして竹千代の元服後の同6年4月24日に、今度は忠勝が竹千代に付属し、江戸城西の丸に勤仕することになった。忠勝は寛永元年(1624)11月に、家光が本丸に移った際に正式に老中に任ぜられ、やがて同3年には武蔵国深谷から忍城主に移り計5万石を支配することになった。翌4年11月には父忠利の死にともない同国川越城主8万石を継ぐことになったのである。忠勝の川越藩主時代は、若狭国小浜城主に転封するまで7年に及んでいる。 家光の寛永政治は、まず酒井忠世・土井利勝・永井尚政・稲葉正勝・内藤忠重・酒井忠勝・青山幸成の7人が幕閣の中心メンバーとなって発足した。このうち忠世と利勝は、すでに60歳を超えており、経歴、年齢の上からもまさに元老格であった。これに対して正勝や忠勝らは若手老中とみられるグループであった。やがて、家光はここで将軍親裁の体制を確立してゆく為、側近の構成の入れ替えを積極的に行い、家康・秀忠時代の遺老に代わって新参譜代によって政治の中枢を形成していく方向をとっていたが、松平信綱や阿部忠秋の台頭や六人衆の構成はこのことを顕著に示している。そして、寛永11年7月忠勝は幕命によって武蔵国川越から若狭国小浜へ転封した。この時所領は11万3500石、翌年1万石が在府領として加増され、以後、12万3500石になったのである。 酒井忠勝が老中に任ぜられた寛永元年11月から大老になる同15年(1638)11月までは、特に鎖国体制の強化と職制の整備、軍役の確定、評定所の設置、参勤交代の制度化などが一段と促進されている。また新幕閣の政治の展開を象徴していくかのように、江戸城の内郭と外郭の大工事も完成したのである。 |