幕府を作り上げた人々 ~酒井忠世と土井利勝~ |
三代将軍家光の時代の寛永前期の政治形態では、秀忠は大御所となり、いわゆる第二次の二元政治が展開する。西の丸の大御所政治は土井利勝を中心に井上正就・永井尚政・青山幸成・森川重俊らによって構成され、本丸の将軍政治は酒井忠世を中心に酒井忠利・稲葉正勝・阿部正次・酒井忠勝・内藤忠重によって運営されたのである。もっともこの二元政治は、寛永9年(1632)1月、秀忠の死去により消滅し、本丸の将軍政治に統合された。 これらの年寄衆(老中)のなかで酒井忠世は、徳川氏の三河譜代第一の名門酒井家の系譜を引く大名である。酒井家は左衛門尉酒井家と雅樂頭酒井氏をそれぞれ宗家として数家に分かれ、譜代大名として江戸時代を通じて栄えていた。酒井氏は徳川氏の親族に準じた扱いでもあった。特に左衛門尉酒井氏の流れを汲む酒井忠次は、世に徳川四天王の一人に数えられている。これに対して雅樂頭酒井氏は三河国西尾城主重忠に続いて、その子忠世、さらに忠行・忠清と繁栄した。また、重忠の弟忠利の子に名高い酒井忠勝がおり、幕政を展開していく大きな功績があった。
しかも忠世の妹の一人は本多正純の妻となっている。これは酒井忠世が本多正信・正純父子と連携しながら政治運営を掌握していこうとしたことを示している。忠世は謹厳な人で土井利勝らと共に将軍秀忠をよく補佐したが、やがて家光の側近の成長に伴い、幕閣の中心から次第に遠ざけられていった。寛永11年(1634)に家光の上洛中、失火によって西の丸が焼失した。そのため、責任を問われて、一時出仕を止められたこともあり、晩年は失意の中に終わっている。忠世は家光政権が軌道に乗りつつあった頃、寛永13年(1636)3月19日に65歳で没している。
家康の落胤とも噂されるほど、利勝は家康の昵懇であったのだが、幼少より秀忠に仕え、関ケ原の戦いでは秀忠に従って中山道を進み、信濃国上田城攻略に加わっている。慶長7年(1602)に下総国で1万石を所領としたが、同15年(1610)には年寄衆となり、下総国佐倉3万2400石を領し、翌年佐倉城を築いている。大坂の陣にも秀忠に従い戦功をあげている。やがて寛永3年(1626)に従四位下侍従に叙任され、家光の初期の政治に重要な役割を果たした。同10年(1632)に下総国古賀に転封となり、16万石に封ぜられている。この16万石は利勝一代で得たもので、他の譜代大名には類例を見ない破格の石高であった。寛永15年(1638)には酒井忠勝とともに大老となり、正保元年(1644)7月10日に72歳で没している。 利勝については、金地院崇伝が細川忠興に「今はだれもかれも大炊殿(利勝)へ頼入体と相見へ申候。いまから本上州(本多正純)の口入にて、大炊殿へ弥御入懇、御尤の儀にて候」と報じているほどである。利勝に入魂になるためには、本多正純の口入を必要としたという記述によって、幕閣の複雑な様相を知る事ができる。また、林春斎が幕閣要路の人々の変遷を記した「林氏異見」に「君臣の間、睦しく和するは佐渡(本多正信)にしくはなし、権柄上に振す大小事共に一人に決するのは、大炊介(土井利勝)にしくはない。土井大炊頭、智謀深き者にて候」とある。これによっても利勝が極めて重要な位置にあったことが伺われる。 |