三成の奉行としての能力・実力
 ~再開発事業~
 


 堺奉行での実績
三成が奉行職として中心的な役割を果たしたことがもう一つ、それは都市の再開発事業であった。太閤検地があまりにも有名なため、三成は農政が得意だったという側面が強いが、その一方で都市プランナーとしても手腕を発揮していたのである。
堺は、ヨーロッパ人宣教師たちによって「東洋のベニス」だとか「自由都市」と表現され、町衆を中心とした自治を基本とする町が出来上がっていた。一時は、織田信長に対し抵抗する姿勢を見せてもいた。
信長の時代以来、堺政所、すなわち堺奉行は松井友閑がつとめていたが、天正14年(1586)秀吉は堺奉行の松井友閑を罷免し、後任に石田三成と小西隆佐を据えた。そして、三成が最初に着手したのは、堺の町を取り巻く環濠を埋めたことである。
このことは、単に物理的に堀が埋められたということだけではなく、もっと重い意味を持った。つまり、三成が堺の町衆がそれまで持っていた堺の自由都市としての性格を全否定したことを意味したのである。
三成の主な役割がそこにあったことは、環濠が埋まったころ、三成が堺奉行の職を退いていることからも伺われる。
  博多の戦災復興事業息子
その後三成は、博多の再開発に取り組んだ。博多は室町時代に日明貿易が盛んにおこなわれていた頃から、国際貿易港として繁栄していた。ところが、戦国時代の九州三強(島津・龍造寺・大友)らの争奪の舞台となり、さらに島津軍に焼き払われるということもあって、往時の繁栄は見る影もなくなっていた。
天正15年(1587)九州攻めのため博多に入った秀吉は、博多の衰微ぶりに驚き、三成らに命じて街の復興を図らせている。これは、秀吉が親切心で復興してやろうというよりも、将来の大陸との貿易や、朝鮮出兵のための経済基地にしようという思惑があってのことだ。
このとき町奉行となったのは、三成の他に長束正家・小西行長・山崎方家・滝川雄利で、彼らによって行われた町割が「太閤町割」の名で呼ばれ、それが今日の博多の原点となっている。
町の復興とともに、三成らが博多の自治を骨抜きにしているところも注目される点である。秀吉は、三成が堺奉行として、堺の町衆による自治を否定することに成功した点を高く評価し、博多にも津中と呼ばれる町民の自治的共同体組織があることを重く見て、三成にその骨抜きをやらせてみようとしたと思われる。
博多は確かに、それまでの自治都市ではなくなった。が、三成とそのあとを継いだ小早川隆景のあと押しのおかげで見事に復興を果たし、さらに繁栄を見せるようになっていったのである。

  京都再開発息子
三成の「都市開発奉行」としてもう一つの仕事が京都だった。秀吉時代の京都奉行というと、京都所司代という職名を持つ前田玄以の名が知られており、彼一人ですべてを統括していた印象が強い。
ところが、「イエズス会日本報告書」第一期第三巻に、「治部少輔と右衛門尉の二人の奉行」と出てくるのである。治部少輔とは三成のことであり、右衛門尉は増田長盛のことで、二人が都の奉行、すなわち京都奉行だったことは注目される。京都の町は大きく、下京と上京の二つの区画からなっており、三成が下京の担当で、長盛が上京の担当の京都奉行であったと思われる。
下京は、三条から四条にかけてのあたりを中心とし、祇園祭で山鉾を出す町々である。町衆による自治が強く見られたところであり、堺や博多の自治を否定し、秀吉政権下に収斂させた経験を持つ三成が、下京の住民たちの意識改変にかかわっていたのであろう。
なお、京都では、天正19年(1591)と慶長2年(1597)の二度、再開発が行われている。二度の再開発にどのように三成が関わったかを示す史料はない。しかし、堺や博多の再開発を進めてきた三成が推進役となっていた事はほぼ間違いがないと思われる。




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