藩へ出仕 ~江戸へ~ |
嘉永6年(1853)5月、そんな西郷に吉報が届く。斉彬が鹿児島に記憶するというのだ。西郷は期待に胸膨らました。また、有村や樺山から江戸に来ないかとの誘いも受けた。 江戸行きを決意した西郷は、必死に旅費の工面をし、新妻や弟・吉次郎らを説得したことであろう。翌安政元年1月、西郷は中御小姓(藩主の雑用を行う役職)となり、定御供、江戸詰を命じられた。そして斉彬の参勤交代の行列に加わって、鹿児島を出発する。
江戸に着いた斉彬は西郷を庭方役に任命した。藩の儒学者・関勇助の推薦だったという。 庭方役は、その名前から庭掃除の仕事が連想されるが、実際は藩主の秘書兼ボディーガードのような役職だった。西郷は数年前から農政に関する意見書を度々藩に提出しており、その意見書が斉彬の目に留まったのかもしれない。 庭方役は地位も禄高も低かったが、西郷は斉彬の傍で働けることに感激し、斉彬の為に命がけで尽くすことを誓った。
ペリーはフィルモア大統領の国書をもって幕府に開国を迫ったが、この時、砲艦外交を行った。四隻の黒船の武力を背景にして交渉してきたのである。 このような緊急事態に聡明な斉彬は素早く対応した。老中首座・阿部正弘や前水戸藩主・徳川斉昭、越前藩主・松平慶永、宇和島藩主・伊達宗城、筑前藩主・黒田長溥らと連絡を取り合い、危機を乗り越えるための外交策を検討、西洋列強と渡り合える幕藩体制を整えようとした。 斉彬はこの緊急時をうまく利用して、幕府に大船の建造を許可させている。それまでは武家諸法度によって500石以上の大きな船を作る事は禁止されていたのである。 斉彬はいかにして外様大名が幕政に関与し、その中で薩摩が最も優位に立つにはどうすればよいか考えていた。斉彬は軍艦や蒸気船も建造し、薩摩に砲台を築いて軍備を強化した。また洋式銃を手本として国産銃を改造させ、小銃や大砲の訓練を行わせている。その結果、薩摩は諸藩中最も優秀な船艦を保有し、幕府に次ぐ海軍をもった。この軍事力が幕末期の動乱に力を発揮する。後に西郷や大久保が素早く鹿児島と京坂を往復できたのも、薩摩が討幕の中心になることができたのも、この軍事力のおかげである。 |