お由羅騒動による藩の弾圧に悲憤慷慨した下級武士たちは、斉彬擁立と藩政改革の実現を目指して有志グループを結成する。このグループはのちに薩摩藩で大きな力を持ち、誠忠組と呼ばれた。西郷、大久保、吉井幸輔、有村俊斎(海江田信義)、長沼嘉兵衛らは、近思録崩れの生き残りである関勇助に指導を受け、「近思録」を会読し、時勢を語り合った。また陽明学者の伊藤猛右衛門に「伝習録」を学び、言行一致の精神を得た。誓光寺の僧・無参に禅の教えを受け、座禅を組んだのもこの頃である。西郷は必死に学問に打ちこみ、精神修業を重ねて人間的に成長していった。そして青年下級武士のリーダーとして頭角を現していく。
お由羅騒動を重く見た老中・阿部正弘は、藩主の斉興を隠居させ、斉彬を藩主とするよう画策した。斉彬は43歳でようやく藩主となったのである。この時、斉彬を支持していた筑前藩主・黒田長溥や越前藩主・松平慶永、宇和島藩主・伊達宗城らが阿部を動かしたが、阿部もなるべく幕府の干渉を表に出さないように慎重に行動した。
騒動によってたくさんの血が流れたが、藩主となった斉彬は報復を行わなかった。お由羅派を弾圧することをせず、また斉興に不当に処罰された者の赦免も非常にゆっくりと行った。慎重に対応することで、再び党争が起こらないように努めたのである。派閥争いがその後起こらなかったのは、斉彬の賢明な判断があったからだった。
嘉永5年(1852)西郷は両親の勧めで上之園の伊集院スガ(伊集院直五郎の娘)と結婚した。しかし、幸せな結婚生活は長続きしなかった。
この年の7月、祖父の龍右衛門が死んだ。さらに9月には父の吉兵衛が病死し、さらに11月には母マサも亡くなった。よって若干26歳の西郷が家督を継ぐことになった。
小さい3人の妹と、3人の弟、祖母を抱えての生活は並大抵のものではなかった。唯一の救いは6歳下の弟・吉次郎がしっかり者で、必死に働いて家計を助けてくれたことであろう。しかし、新婚の西郷夫婦に生活の厳しさが重くのしかかった。結局、親代々の下鍛冶屋町の家を売り払って、郊外の上之園町で借家暮らしをせざるを得なくなってしまった。
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