西郷の生い立ち
 ~郷中教育~
 


 郷中教育とは
幕末の薩摩藩からは有能な人材が数多く輩出された。時に、西郷が生まれた加治屋町には、刎頸の友であった大久保利通をはじめ、大山巌、東郷平八郎、黒木為偵、吉井友実、黒田清隆、山本権兵衛など枚挙にいとまがない。これら偉人輩出の最大の原因は、薩摩藩の教育体制にある。
薩摩には、島津重豪が安永2年(1773)に創設した造士館があり、従来の演武館と合わせた学風の刷新や、重豪の開化政策、島津斉彬の集成館事業なども要因として考えられるが、藩校は他藩でも存在しており、決して薩摩藩独特のものではない。鹿児島の城下は城下士の居住地をいくつかの郷に分けていたが、その郷ごとに青少年の集団教育が行われていた。それが郷中教育である。先生が生徒を指導するのではなく、年長者が年少者を指導するという、薩摩藩独特の藩士育成の教育法であった。
 年長者が年少者を厳しく指導
郷教育の構成員は、上から長老(おせ 24,5歳以上)、二才(にせ 14.5歳~24.5歳)、稚児の年長者が長稚児(11~14・5歳)、年少者が小稚児(6.7~10歳)である。
郷中教育の日課は、大体次のとおりである。
午前6時、稚児は二才の家へ行って四書五経などの講義を受け、素読や暗唱を行う。
午前8時、稚児は神社の境内や馬場などで相撲や走り競べ、大将防ぎ、降参言わせ、馬追競争などの模擬戦を行って心身を鍛える。
午前10時、長稚児が小稚児を指導して、朝の講義の復習をする。また、いろは歌、歴代歌、虎狩物語などを暗唱した。
昼12時に昼食。昼食後は山遊びや川遊び、魚釣りをする。雨の場合は室内で大名カルタ、武者カルタなどで遊ぶ。
なお、二才で役職についているものは10時から午後2時まで藩庁で仕事をする。役職のない二才と長稚児の一部は藩校・造士館で勉強した。
午後4時、東郷示現流や薬丸示現流の剣術稽古をする。
午後6時以後、小稚児は外出禁止。長稚児は二才衆が集まっている家へ行き、日頃の生活態度の指導を受けて、午後8時に帰宅する。
このように郷中では、年長者が年少者を指導して、厳しい集団教育が行われていたが、これが薩摩流の英才教育であった。
 郷中の年中行事
郷中教育は非常に厳格に行われたが、日課以外にも年中行事もあった。「曽我の傘焼き」「妙円寺参り」「義臣伝読み」などである。
曽我の傘焼きとは、鎌倉時代に父の敵を討ち取った工藤兄弟がたいまつの代わりに傘を燃やしたことに由来する。孝道の大切さを伝える行事である。
妙円寺参りは、関ケ原の戦い前夜である9月14日に島津義弘の菩提寺・妙円寺に参詣し、敗戦の悔しさを思い出す行事である。二才たちは鎧兜に身を固め、鹿児島の西方約20キロの妙円寺にお参りした。義臣伝読みは、赤穂浪士が吉良上野介の屋敷に討ち入りした12月14日に「赤城義臣伝」を輪読するもので、赤穂浪士の主君への忠義を賛美した物だった。
このような年中行事によっても、薩摩の青少年は幼年のころから心身ともに鍛えられ、郷中の結束は強固なものとなった。
しかし郷中では、「郷中外の人間と親しくするな」「稚児の場合は話もするな」と厳しい制限を設けていたため、郷中同士は競争し、時には激しく対立した。
 西郷も郷中教育で成長
西郷家は貧しかったが、それでも西郷はきちんとした教育を受けている。小稚児の悪露から儒学者の松本覚右衛門に漢籍の素読を習い、長稚児になると藩校の造士館で学んだ。また陽明学を伊藤猛右衛門に学び、有馬一郎、関勇助、大久保利世(利通の父)らに諸学の教えを受けている。
もちろん、西郷も郷中教育の中で育っている。その影響を多大に受けているが、13歳の時、造士館からの帰りに友人と口論となりけんかとなった。相手はさやに入ったままの刀で打ったが、運悪く鞘が割れて西郷の右ひじをひどく傷つけた。それ以降、西郷の右ひじは
充分伸びなくなり、剣術をあきらめなくてはならなかった。武士の子の右手の傷は致命傷ともいえるもので、西郷は少年にして障害を負ってしまったのであるが、逆にこれが後年の西郷の知謀と胆力を育んだともいえる。武芸で身を立てることをあきらめ、学問に打ち込むようになったことで、西郷の考えが深くなり、後年に大業を行う原動力になったと思うからだ。




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