西郷の生い立ち
 ~薩摩藩の土壌~
 


 島津氏とは
西郷隆盛が仕えた薩摩藩の藩主は島津氏だった。島津氏は、平安時代の万寿3年(1026頃)、平季基が、薩摩、大隅、日向の3つの国にまたがっていた島津荘を開墾し、関白の藤原頼道に寄進したことが始まりだった。文治元年(1185)に、源頼朝が平家を滅ぼして、その勢力を島津荘から排除し、自分の息のかかった御家人を地頭に任じ、惟宗忠久を島津荘の下司、のちに地頭に任命した。これが島津氏の始まりである。さらに忠久は、薩摩・大隅・日向の守護となり、その子孫が代々南九州の一部を統治。のちに戦国時代になるとその所領は薩摩国の半分ほどになってしまうが、当時の忠久の薩摩・大隅・日向の三州統一が、戦国島津家の悲願となる。島津隆久は領土を拡大しようと、子の義久・義弘らと共に在郷領主を屈服させ、天正5年(1577)にはついに三州の統一を実現させた。
勢いに乗る島津氏は、九州統一に邁進し、大友氏、龍造寺氏を圧倒し、九州の北部まで勢力を拡大した。が、天下統一に邁進する豊臣秀吉がそれに待ったをかける。天正14年(1586)義久は大友氏と秀吉の連合軍を一度は撃退したが、翌年、秀吉は20万ほどの大軍で九州に侵攻。義久は屈服し、念願の九州統一は夢に終わった。結局島津氏は薩摩・大隅と日向の一部の領有を認められた。
慶長5年の関ケ原の戦いでは、島津義弘が石田三成率いる西軍に加担した。そこで徳川家康の東軍に敗れ、絶体絶命となったが、家康本陣の正面突破を果たし、見事脱出に成功した。こうした勇猛な戦いぶりと、国元の義久らの巧みな外交により、島津氏は西軍に属しながら従来通りの所領を安堵される。ここに、外様の雄藩島津氏が確立する。
 財政難の薩摩藩
薩摩藩は77万石と、加賀前田藩に次ぐ大藩であった。しかし幕府は、外様大名である薩摩藩には政治に参加する資格を与えなかった。また、参勤交代制度によって、大名の妻子を人質として江戸に住まわせ、大名には江戸と国元を一年交代で往復させたが、江戸から遠く離れた薩摩藩の負担は非常に重いものだった。
さらに幕府は薩摩藩を弱体化させようと、たびたび大土木工事を命じている。宝暦5年(1755)の木曽川の治水工事では、工事費が藩の予算の3年分にあたる40万両(現在の金で約300億円)に達した。このとき、工事の総奉行を務めたのが平田靱負である。工事は幕府の役人も称賛するほどの見事な出来栄えであったが、幕命による度重なる計画変更や、追加工事、洪水による竣工部の被災などで費用がかさんだ。また過酷な工事で薩摩藩士の死者は84人(51人が自害)に達し、平田は責任を感じて自刃した。
薩摩の土地は、シラス(火山からの噴出物)に覆われていて保水性に乏しく、やせた土壌であったため、稲作に向かなかった。そこで薩摩の人々は乾燥に強いサツマイモ、大豆、菜種などの畑作物を栽培したが、その生活は厳しいものであった。さらに台風や津波などの自然災害も多く、決して住みやすい土地ではなかったが、この厳しい環境こそが、皮肉ながらも屈強な薩摩隼人の精神をはぐくんだといえよう。
もともと土壌がやせていた上に、「蘭癖」と言われていた藩主・島津重豪の浪費や、幕府の厳しい施策が重なって、薩摩藩の財政は危機に瀕していた。薩摩藩家老の調所広郷(笑左衛門)による藩政改革が行われるまで、薩摩藩は500万両の借金を抱え、利子さえ払えない状態であったという。
大名行列は非常に質素なもので、江戸詰の奉公人への扶持米も滞り、13か月も払えないこともあった。酷いときには江戸藩邸の金庫にはほとんど在庫がなく、金貸しからも見放されていたという。
だが、調所の改革などによって、薩摩藩は日本一の富強藩に成長していった。時には密貿易など手段を選ばぬ手法で、幕政にも影響を及ぼす雄藩となっていったのである。




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