西郷の生い立ち ~薩摩藩の土壌~ |
勢いに乗る島津氏は、九州統一に邁進し、大友氏、龍造寺氏を圧倒し、九州の北部まで勢力を拡大した。が、天下統一に邁進する豊臣秀吉がそれに待ったをかける。天正14年(1586)義久は大友氏と秀吉の連合軍を一度は撃退したが、翌年、秀吉は20万ほどの大軍で九州に侵攻。義久は屈服し、念願の九州統一は夢に終わった。結局島津氏は薩摩・大隅と日向の一部の領有を認められた。 慶長5年の関ケ原の戦いでは、島津義弘が石田三成率いる西軍に加担した。そこで徳川家康の東軍に敗れ、絶体絶命となったが、家康本陣の正面突破を果たし、見事脱出に成功した。こうした勇猛な戦いぶりと、国元の義久らの巧みな外交により、島津氏は西軍に属しながら従来通りの所領を安堵される。ここに、外様の雄藩島津氏が確立する。
さらに幕府は薩摩藩を弱体化させようと、たびたび大土木工事を命じている。宝暦5年(1755)の木曽川の治水工事では、工事費が藩の予算の3年分にあたる40万両(現在の金で約300億円)に達した。このとき、工事の総奉行を務めたのが平田靱負である。工事は幕府の役人も称賛するほどの見事な出来栄えであったが、幕命による度重なる計画変更や、追加工事、洪水による竣工部の被災などで費用がかさんだ。また過酷な工事で薩摩藩士の死者は84人(51人が自害)に達し、平田は責任を感じて自刃した。 薩摩の土地は、シラス(火山からの噴出物)に覆われていて保水性に乏しく、やせた土壌であったため、稲作に向かなかった。そこで薩摩の人々は乾燥に強いサツマイモ、大豆、菜種などの畑作物を栽培したが、その生活は厳しいものであった。さらに台風や津波などの自然災害も多く、決して住みやすい土地ではなかったが、この厳しい環境こそが、皮肉ながらも屈強な薩摩隼人の精神をはぐくんだといえよう。 もともと土壌がやせていた上に、「蘭癖」と言われていた藩主・島津重豪の浪費や、幕府の厳しい施策が重なって、薩摩藩の財政は危機に瀕していた。薩摩藩家老の調所広郷(笑左衛門)による藩政改革が行われるまで、薩摩藩は500万両の借金を抱え、利子さえ払えない状態であったという。 大名行列は非常に質素なもので、江戸詰の奉公人への扶持米も滞り、13か月も払えないこともあった。酷いときには江戸藩邸の金庫にはほとんど在庫がなく、金貸しからも見放されていたという。 だが、調所の改革などによって、薩摩藩は日本一の富強藩に成長していった。時には密貿易など手段を選ばぬ手法で、幕政にも影響を及ぼす雄藩となっていったのである。 |