藩へ出仕 ~お由羅騒動~ |
それに対して調所らはこの動きを警戒していた。斉彬の曽祖父重豪のような蘭癖家の斉彬が藩主となれば、改革を成功させ財政難を乗り切ったことが無駄になると考えたのだ。調所らは、斉興と愛妾・お由羅の子・久光を擁立し、斉彬派と対立した。 一方、40歳を過ぎても藩主になれない斉彬は、それがお由羅と調所の策謀であると考えていた。そして筑前藩主・黒田長溥や老中阿部正弘らの協力を得て調所の排除を実行する。嘉永元年(1848)12月、調所は鎖国令を破って密貿易をしていたことを幕府に咎められ切腹自殺したが、これは斉彬派からの先制攻撃であった。
この時、大久保利通の父・利世は喜界島に流され、利通も職を失い、大久保家は大変な苦難と貧乏を味わった
赤山は日置郡を領地とする城代家老・島津久風の次男で赤山姓を名乗っていた。人望があり、誠実な人物であったという。また進んだ考え方をもっており、斉彬を藩主にしようと活動していた。 事実かどうかは不明だが、赤山が切腹する際、吉兵衛が介錯をしたという話が残っている。そしてこのとき、赤山の血染めの肌着を拝領した。 父からこの肌着を見せられた西郷は強い憤りを感じ、いつの日かお由羅一派を倒して斉彬の下で働きたいと心に誓った。この時、西郷は24歳になっていた。 |