藩へ出仕
 ~お由羅騒動~
 


 藩主継嗣問題
薩摩藩主斉興の子・島津斉彬は、江戸生まれの江戸育ちで、27歳まで薩摩に入ったことがなかったが、大変英邁な人物で、薩摩藩でも待望する声が上がった。藩内では次第に斉彬を藩主にしようという動きが活発化していった。調所広郷の強引な藩政改革は成功を収めていたが、その反面多くの藩士や農民が犠牲を強いられ、不平不満が募っていたのである。
それに対して調所らはこの動きを警戒していた。斉彬の曽祖父重豪のような蘭癖家の斉彬が藩主となれば、改革を成功させ財政難を乗り切ったことが無駄になると考えたのだ。調所らは、斉興と愛妾・お由羅の子・久光を擁立し、斉彬派と対立した。
一方、40歳を過ぎても藩主になれない斉彬は、それがお由羅と調所の策謀であると考えていた。そして筑前藩主・黒田長溥や老中阿部正弘らの協力を得て調所の排除を実行する。嘉永元年(1848)12月、調所は鎖国令を破って密貿易をしていたことを幕府に咎められ切腹自殺したが、これは斉彬派からの先制攻撃であった。
 斉彬派弾圧
勢いを得た斉彬派はさらに町奉行の近藤隆左衛門、高崎五郎右衛門らが中心となって、お由羅や家老の島津将曹の殺害を企てた。しかし、この陰謀を察知したお由羅側が反撃をする。お由羅は藩主・斉興に事の次第を訴えて味方につけ、斉彬派の弾圧を開始した。結果、近藤や高崎、船奉行・山田市朗右衛門、江戸詰家老・島津壱岐など14名が切腹処分を受け、9人が遠島、他50人以上が厳しい処罰を受けた。これが嘉永2年(1850)に起こったお由羅騒動と言われるもので、斉彬派(進歩派)とお由羅派(保守派)の抗争であった。別名「近藤崩れ」「高崎崩れ」「嘉永朋党事件」ともいう。
この時、大久保利通の父・利世は喜界島に流され、利通も職を失い、大久保家は大変な苦難と貧乏を味わった
 西郷、血染目の肌着に憤慨する
西郷は直接お由羅騒動に関わってはいない。そのため西郷自身及び西郷家はお咎めはなかったが、西郷は大変尊敬する人物が切腹を命じられた。西郷の父・吉兵衛は日置島津家の分家である赤山家の会計係を務めていたが、その騒動で赤山靱負が処罰されたのである。
赤山は日置郡を領地とする城代家老・島津久風の次男で赤山姓を名乗っていた。人望があり、誠実な人物であったという。また進んだ考え方をもっており、斉彬を藩主にしようと活動していた。
事実かどうかは不明だが、赤山が切腹する際、吉兵衛が介錯をしたという話が残っている。そしてこのとき、赤山の血染めの肌着を拝領した。
父からこの肌着を見せられた西郷は強い憤りを感じ、いつの日かお由羅一派を倒して斉彬の下で働きたいと心に誓った。この時、西郷は24歳になっていた。




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