藩へ出仕 ~頭角を現す~ |
ある不作の年に事件は起こった。嘉永2年(1849)の頃であった。その年は大変な不作であったが、それにもかかわらず藩庁からは平年並みかそれ以上の年貢を取るように指示があった。それに対して迫田は、不作である事を訴え、逆に年貢の軽減を上申したが、受け入れられなかった。 迫田は憤り、「虫よ虫よ、五ふし草の根を絶つな。絶たばおのれも共に枯れなん」という歌を残して辞職した。虫は藩庁の事を差し、五ふし草とは稲の事で農民を意味していた。農民を根絶やしにするようなことをすれば、藩も共に倒れてしまうと言いたかったのである。 この事件は西郷に大きな感銘を与えた。西郷はしばしばこの歌を口ずさみ、農民のための政治を心がけた。迫田の後は大野五右衛門という人物が着任したが、平凡な人物であったという。 迫田の姿勢からたくさんのものを学んだ西郷は、のちに農政の意見書を藩主・島津斉彬に提出して藩政を批判している。
この妹背橋の工事費の収支が合わなくて会計担当者が責任を問われたときに、西郷が「自分が責任を持つ」と言って無事話を収めたというエピソードがあるが、当時19歳で書役助の西郷が工事責任をとれるわけがなく、工事に関与したことから生まれた美談であろう。 このように西郷は仕事に精を出していたが、頭角を現したのは仕事面ではなく豪中での教育であった。20歳になった西郷は下鍜冶屋郷中の二才頭となる。二才頭は単なる二才衆のリーダーというだけではなく、郷中全体の指導者でもあった。 仕事後、夕方からは稚児に稽古をつけ、夜は書物を読んだり、他の二才衆と詮議をして武士としての心構えを討論したりしたのだ。そして農政改革の考えを固めていったのである。 |