藩へ出仕 ~農政家として~ |
西郷も弘化元年(1844)18歳で藩に出仕した。最初の役は郡方書役助である。年俸は4石で、以後10年間昇給無しで同じ役職を務めた。しかし書役助とは書役の臨時職であり、良く10年間も勤めることができたともいえる。いずれにせよ、御小姓与の子としては平均的な役職で、出世の見込みなどほとんどない職であった。 ちなみに、西郷と幼馴染の大久保正助(利通)は、藩の記録所書役助となった。正助の父・利世も身分は御小姓与で、琉球館附役という職であり、琉球との貿易にも関わっていたものと思われる。 西郷は農民と直接関わる仕事だったが、大久保は藩の役所で書類を扱う対照的な職場であった。
島津氏は豊臣秀吉に敗れて領地が狭くなったにもかかわらず、九州の大半を支配していた頃の家臣団をそのまま維持しようとし、さらに関ケ原の敗戦でさらに厳しくなった状況においても、変わらず家臣団を維持していた。その結果、人口の3分の1以上が武士階級という異常な状態ができてしまった。ちなみに、他藩においては平均して人口の1割以下である。 そのため、百姓たちはただでさえ米がとりにくいシラス台地が主の薩摩という土地にあって、異常に厳しく支配され、米の収穫高の8割近くを治めなくてはならなかった。徳川幕府が「百姓は生かさず殺さず」という支配思想で江戸時代の農政を展開していたといわれるが、薩摩のそれは「百姓を殺してでも」というに等しいといえる。
藩は享保の検地(1722~27)の際には農民をだましている。検地とは稲の生育状態からその農地の収穫量を推測する作業である。この時、藩は検地を村役人に任せ、その収穫高の増加分はその村の収入にすると触れだした。各村は争って高を増やすようにしたが、何と藩はその増高を藩の収入にしてしまったのである。 西郷はこのような矛盾(というか過酷)の中で、農政に携わっていたのだった。 |