佐賀藩の開明性の根幹・長崎御番
~外圧の影響~
 

 ラクスマンとレザノフ
いわゆる鎖国体制と言われた17~19世紀初頭にかけては、日本をめぐる国際環境は概して平穏だった。しかし、18世紀半ばころからは徐々に外からの刺戟が加えられ、天下泰平に安住している日本人の神経をいらだたせた。まず現れたのはロシアによる北方の脅威だった。
ロシア帝国は16世紀に膨張し始めて、広大なシベリアを制圧し、18世紀にはカムチャッカ半島や千島列島まで達し、出漁中の日本人と出会った。ロシア人は、シベリア植民者用の食料など生活必需品を日本から輸入したいと望み、使節ラクスマンが寛政4年(1792)に日本人漂流民大黒屋光太夫らを伴って蝦夷地の根室に来航して通商を求めた。幕府は鎖国の祖法を盾に通商を拒否したものの、日本唯一の開港地である長崎への入港許可証を授けて帰帆させた。
そこで、文化元年(1804)ロシア皇帝側近の使節レザレフは、入港許可証を持参して長崎に来航し、国書奉呈と通商交渉を申し入れた。しかし幕府は、半年も待たせた挙句、文化2年(1805)3月に国書・信物を受理せず通商要求も拒絶した。交渉窓口となった長崎奉行の対応が硬直していたのは、長崎オランダ商館長の讒言に惑わされたからだ。オランダ人は対日貿易利益の独占を図り、ロシアの貿易参入を妨害しようとしたのである。レザノフは冷遇と非礼に怒り、部下の海軍軍人フヴォストフらを唆して、樺太南部・択捉島・礼文島・利尻島など無防備の日本人入植地や和船を襲撃し略奪させた。事件の実態は局地的なものであったが、泰平の世に安眠していた日本側は不意を突かれて狼狽し、日本人識者の深層意識に恐露(ロシアへの恐怖)観念を植え付けたのである。
 フェートン号事件
ロシアに続き、次はイギリスが日本を騒がせた。
レザノフ退去の3年後の文化5年(1805)8月、イギリスの軍艦フェートン号が、長崎に突然現れた。もっとも軍艦といっても、当時はまだ帆船だった。
イギリスは、16,7世紀以来、強勢な海軍力を押し立てて七つの海に進出し、各地に植民地を確保して世界強国となった。他方、18世紀末のフランスでは、ナポレオンが台頭してヨーロッパ大陸を制覇し、イギリスと対峙した。そこでイギリスは、ナポレオンの支配下に入ったオランダを敵国視し、アジア各地のオランダ商館接収やオランダ商船拿捕に乗り出した。その一環としてフェートン号は、長崎オランダ商館を狙って来航したのである。
入港時のフェートン号は、偽装してオランダ国旗を掲げていた。そこで長崎奉行所は、すでにオランダ商船渡来の季節が過ぎていたのにもかかわらず、検視船を出し、オランダ商館員2名が同行した。一同が来航するや、フェートン号はオランダ国旗をイギリス国旗に掲げ替えて検使を追い出し、オランダ人を人質に捕えて飲料水・食料を要求した。ボートでは、港内を捜索したがオランダ船は不在だった。イギリス側の武力行使を恐れたオランダ商館長らは、急遽奉行所に保護を求めて避難する騒ぎとなった。
幕府天領長官の長崎奉行松平康英は、イギリス艦の傍若無人の振る舞いに激怒し、長崎御番の当番年で港口警備にあたっていた佐賀藩部隊に出動を命じた。ところが、シーズンオフに入っていたので隊員の大部分はすでに帰藩し、急場に間に合わなかった。佐賀藩は、長年の平穏無事に油断し手を抜いていたのである。打つ手に窮した奉行所は、オランダ商館長に嘆願されるままに、やむを得ず人質と引き換えに飲料水・食料を提供し、2日後にフェートン号は退去した。その夜、松平奉行は不始末の責任を取って切腹自殺を遂げた。遺書には、佐賀藩の怠慢への抗議も認められていた。これがフェートン号事件である。
 鍋島斉直の逼塞
松平康英の引責自殺で、この外国軍艦騒擾事件は重大政治事件へとエスカレートした。江戸の大身旗本から任命される長崎奉行は、将軍の意を受けて西国諸大名を軍事的に指揮命令できる広大な権限を帯びていた。いわば幕府西国支社長格に相当する公儀直参の高官で、並の大名より上位の権力者だった。それほど重要な地位にある人物が自害に追い込まれたわけだから、事態はすこぶる深刻にとらえられ、責任問題が厳しく追及されるに至った。
不運にも避難の矢面に立たされたのは、松平の遺書でも警備の手抜かりを指弾された佐賀藩だった。佐賀藩は平身低頭し、長崎派遣の番頭の千葉三郎右衛門・蒲原次右衛門の死罪をはじめ関係者を厳罰に処して幕府に謝罪した。だがそれだけではすまず、佐賀藩主鍋島斉直は将軍の叱責を受け、逼塞(謹慎)を命じられた。大藩35万7千石の堂々たる国持ち大名ともあろうものが、世間との交際を断たれて屋敷に閉居させられたのである。佐賀藩士民一同はその厳しさに驚愕した。
藩内には重苦しく沈痛な空気が立ち込め、歌舞音曲の停止はもちろん、城内や市中の年中行事や祭礼は取りやめ、役所や学校は門を閉じ、藩士は髭も剃らず、商店や行商まで自粛し、藩全体は火が消えたような有様となった。斉直の逼塞は百日間で解除されたが、フェートン号事件は佐賀藩全体に癒しがたい傷痕を遺したのである。
この事件で佐賀藩の人士は、対外問題の厳しさ難しさを嫌というほど痛感させられ、この痛切な体験で、あらためて長崎御番が重責であることを骨身にしみて思い知らされるとともに、国際感覚も研ぎ澄まされたのである。
この点は、同じ御番役の福岡藩が非番年であり、それほどの衝撃を受けなかったことと対をなしている。両藩の今後の歩みを大きく分けた一因であろう。




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