佐賀藩の開明性の根幹・長崎御番
~長崎~
 

 負担が大きい長崎御番
長崎は天領(幕府直轄領)であった。だから、幕府自身が港口に台場(砲台)を築き、石火矢(大砲)・砲弾・火薬を備え付けたが、その運用は御番の藩兵にゆだねられた。福岡藩と佐賀藩は、それぞれ当番年に約千人の軍勢を長崎に派遣して番所と主力台場を固め、非番の藩も約半数を残して付随台場を守った。おまけに両藩はそれぞれ用船百層以上の水軍も用意しなくてはならなかった。
長崎御番の大任は、福岡・佐賀両藩に様々な影響を及ぼした。御番は軍役だから動員費用は藩の自弁であり、藩財政に過大な負担を背負わせた。そこで幕府は両藩の参勤交代費用の軽減を図り、通例では一年間となっている藩主江戸滞在期間を百日間に短縮した。両藩はこの特典を「百日大名」と自慢し、将軍から特別待遇を与えられているという誇りは、日本国防の第一線をになっているという使命感と相まって、財政苦を耐える精神的根拠となった。
御番にはオランダ船入港時の臨時動員が付加された。佐賀藩の場合は、長崎湾頭山頂の遠見番所から遠眼鏡で帆影を見つけると、約三十里を隔てた佐賀まで早飛脚で急報された。その報を受けた藩庁は、直ちに城下十か所の寺社に早鐘や板木を打ち鳴らさせた。その音を耳にした藩士たちは、急いで所定の場所に駆け付けて出動態勢を整える仕組みだった。俗に「ゴンゴン、ガタガタ」といわれ、この騒ぎで佐賀城下や近郷の武士や農民、町民に至るまで、否応なしに「異国」の存在を常時意識させられたのである。そこで自然と藩内には一種の国際感覚が広く醸成されたが、徳川国際秩序下で内向きになってしまった日本の他地方には滅多にない独特な雰囲気だった。
 国際都市長崎
天領長崎は徳川国際秩序下において唯一貴重な対外窓口であり、特に西洋からの物資や情報に大量に接触できる日本唯一の国際都市だった。
長崎に入港するオランダ船は年平均五隻程度で、白糸(生糸)・砂糖・絹織物・理化学品などをもたらして銀・金・銅・手工芸品などと交換したが、江戸時代中期以降は1年で二隻に制限された。出島の商館にはオランダ人十数人が常駐し、うち一人は医者だった。商館長は自国船が入港すると最新の政治経済情勢報告書を長崎奉行所に提出する義務を負い、その翻訳「阿蘭陀風説書」が幕府老中へ送られた。また商館長は毎年江戸参府を行った。
オランダ船以上に国際色をもたらしたのは唐船で、多い年は延べ二百隻に達して旺盛に貿易活動を繰り広げ、白糸・薬種・書籍などを持ち込み、銅・水産物などを持ち帰った。なかには唐船と称しながら、安南(ベトナム)・呂宋(フィリピン)・暹羅(タイ)など東南アジア各地からの船も混在していた。唐人屋敷で生活する者は多い時には五千人を超え、唐人用の仏寺や道教廟も建てられた。唐船が入港するたびごとに、長崎奉行所の風説定役は船長から必要事項を聴収して、「唐船風説書」を作成し、これも奉行を経て老中へ伝えられた。「阿蘭陀風説書」「唐船風説書」は幕府の貴重な海外情報源となった。両風説書の内容はもちろん部外秘だが、御番方として長崎奉行所と常時接触している佐賀・福岡両藩には洩らされた。このことは、琉球王国を保護下に置く薩摩藩を例外とすれば、総じて海外事情に疎い諸藩とは決定的に違う特権だった。
長崎奉行所には通訳官兼商務官として世襲の「オランダ通詞」約50人、「唐通詞」約80人が置かれた。彼らは語学に達者で、異国人と専門に交渉する役目なので、異国文化を媒介する役割も果たした。オランダ通詞の中には商館医師から西洋医術や理化学を学ぶ者もあらわれ、その知識が市中に伝わり「蘭学」が広がる端緒となった。
長崎の人口は6万人を超え、三都(江戸・大坂・京都)に次ぐ大都市として、徳川国際秩序下の日本では例外的な国際色豊かな別天地だった。そこに隣接しかつ常に多数の藩士を滞在させている佐賀藩の藩風に影響が及ばないはずはなかった。総じて佐賀藩の藩風は、開明的実際的色合いが濃くて異国人への偏見も少なく、幕藩体制下では少数派のいわば変わり者の部類だった。
ゆえに佐賀における蘭学の登場も他藩に比べて早く、江戸ではオランダ商館長の江戸参府とともに伝わった蘭学が、第八代将軍徳川吉宗の奨励によって盛んになり、安永3年(1774)の杉田玄白、前野良沢翻訳「解体新書」が一つの画期となったが、既に佐賀では長崎で修業した島本良順が蘭方医の看板を掲げ、やがて、門下から伊藤玄朴、大石良英、山村良哲ら名医が育った。寛政3年(1791)には長崎の著名な蘭方医楢林栄哲を藩医に招いている。




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