佐賀藩の開明性の根幹・長崎御番 ~「鎖国」から始まった~ |
17世紀初頭に天下を平定して江戸幕府を開いた初代将軍徳川家康は、諸外国との貿易には積極的だったが、キリスト教に対しては次第に厳しくなり、慶長18年(1613)12月にキリシタン禁令を発して信徒の活動を全面的に取り締まった。ついで二代将軍秀忠は、元和2年(1616)にヨーロッパ商人との貿易地を長崎・平戸の二港に限定して諸大名を海外貿易から締め出し、幕府による貿易利益独占を図った。この傾向は次の三代将軍家光の治政に一層強化され、寛永10年(1633)から16年にかかての一連の鎖国令によって、日本人の海外往来禁止、キリシタン厳禁、外国船渡来制限などの政策が次々に励行された。 その最中に「島原の乱」が勃発した。寛永14年(1637)秋から翌年春にかけて島原半島・天草諸島の農民約3万人が苛政とキリシタン抑圧に耐えかねて一揆を起こし、幕府が動員した西国諸藩軍勢12万と死闘を演じた。敗れた一揆勢はほぼ全員が虐殺され、幕府側も1万数千人の死傷という痛手を受けた。島原半島に隣接する大藩として最多の軍勢を繰り出された佐賀藩は、諸藩の中で最大の損害を被り、討死に620人、手負い3000余人を数えた。
ここにいわゆる鎖国体制が成立した。ただし、「鎖国」という表現は、対外関係を完全に閉鎖したかのような感覚を伴う。いわゆる「徳川国際秩序」という新たな対外関係においては、すべての国との関係を断ったわけではない。そこには「通信」関係と「通商」関係が存在していた。「通信」とは「信義を通じる」という意味で、朝鮮国・琉球国との関係を指し、徳川将軍家と朝鮮李王朝家もしくは琉球尚王家との交際という形に限定された特殊関係だった。「通商」とは、オランダ商人および唐証人にのみ長崎一港に限って認められた制限的貿易関係であり、国交関係ではなかった。それ以外の対外関係は原則として遮断された。長崎以外にも窓口として、琉球王国との「薩摩口」、朝鮮国との「対馬口」、蝦夷との「松前口」があったが、いずれも相手が限られた局地的な交流だった。
この強硬措置に対してはガウレタ船(ポルトガル船)による報復が当然予想された。そこで翌寛永18年、家光は九州北部で50万石と最大石高を誇る筑前藩黒田家の藩主黒田忠之に長崎港口警備の軍役すなわち「長崎御番」を命じた。しかし、福岡一藩のみでは不十分と見たのか、寛永19年には領地が長崎と同じ肥前国内で地理的に隣接する35万7千石の佐賀藩主鍋島勝茂にも長崎御番を命じ、福岡藩と一年交代で勤めさせた。そして長崎は天下の大手口で御番は異国抑えの大役であるから武門の名誉と心得、ありがたくお請けせよと言い渡した。この経緯から明らかなように、長崎御番の使命は警備一般の域にとどまらず、ガウレタ船という具体的脅威を想定したものであり、当初は実戦覚悟の真剣な役目だった。これが長崎御番のはじまりである。 |