1・坂本龍馬の魅力 ~人心掌握術~ 西郷と桂を口説く |
勝海舟の「意向」を受け継ぐ |
薩長連合は、大政奉還による明治維新の扉を開くもととなった画期的な政治事変であった。この連合は坂本龍馬の尽力によるところが多かったと思われる。連合の成功は龍馬が薩摩の小松帯刀・西郷隆盛、長州の桂小五郎の心を掌握していたからではないか。 薩長連合の源流は、実は勝海舟に発するのかもしれない。勝は幕臣として重要な地位にありながら、私的な幕政強化よりも、時代の流れに即応した国際的視野に立って日本の将来を考え、公的な立場から朝幕関係の融和、公武合体的な政治体制を考えていた。そのため、元治元年(1864)1月の参与会議に期待していた。しかし、3月には会議は解体してしまった。 これに失望した勝は時局の重大性を認識し、新しい政治体制樹立の構想を考えたようである。激動の続く中で、勝は長州を中心とする尊攘過激派の後退と、幕府の反動化をみて、雄藩連合による新政府の成立を考えたと思われる。9月勝は西郷に会い、幕府の政権維持はもはや不可能だと話し、雄藩が新日本建設のために努力しなければならぬと説いたのだ。 勝の話に誘発された西郷は、幕府への協力態度を反省し、雄藩協力を考えるようになったが、一方で勝は幕府の反動派ににくまれ、元治元年10月免職となった。勝の政治改革の理想は龍馬が継承することになる。西郷の人柄は後の龍馬の行動に大きく影響する。 |
奔走する龍馬 |
慶応元年(1865)4月、龍馬は京都で土方楠左衛門(久元)に会って国事を論じた。三条実美の衛士となっていたが、八・一八の政変後、帰藩命令をこばみ浪士となり、長州から太宰府に移っていた。一方、龍馬と同じ土佐藩士だった中岡慎太郎は、八・一八の政変後脱藩して長州の尊攘派と行動を共にし、長州と幕府との武力闘争にそなえていた。 二人とも八・一八政変、禁門の変と薩摩のために煮え湯を飲まされていたので、薩摩に対し憎悪の念を抱いていた。しかし、幕府の第一次征長戦後の西郷の寛大な処置や、五卿の大宰府移転に好意を示したことで二人は西郷の反幕的意図をくみとり、次第に薩長和解を考え始めたのであった。 西郷は藩論を討幕に統一するために鹿児島に帰った。龍馬は旧海軍塾の同志と共に同行した。薩摩の藩論が反幕へとすすんでいるのをみた龍馬は下関に向かった。 途中、熊本で横井小楠に会い、「乱臣賊子となるなかれ」と注意されたことを思い出し、大宰府では三条実美らと国事を論じたが、東久世道トミは日記に「土州坂本龍馬面会、偉人なり、奇説家なり」と記している。 閏5月1日下関に到着し、薩長連合への活躍が始まる。一方、同氏は小松に随従して長崎に赴き、亀山社中を形成した。後の海援隊である。 |
西郷と桂の会談へ |
下関に着いた龍馬は土方と会った。土方は在京中長州再征の準備ができたことを知り、中岡と共に西下したのである。二人は西郷と桂の会見を計画し、中岡が薩摩に行ったことを話し、龍馬に桂の説得を依頼して報告のため太宰府に帰った。 長州と薩摩は犬猿の仲である。桂を説得するのは容易ではなかった。龍馬独特の粘り強い説得ののち承知させたものの、西郷の上京で会見は成らず、龍馬と中岡は桂をなだめるのに苦心した。二人は西郷説得のため上京し、西郷の謝罪使派遣、長州の薩摩名義による艦船・武器の購入、上京中の薩摩藩兵の為に長州より兵糧米を送ることなど、龍馬の巧みな仲介で薩長和解がようやく成功した。 桂は西郷と会見のため12月25日上京したが、龍馬は結果を心配して三吉慎蔵と同行して出帆した。大坂から亀山社中の池内蔵太・新宮馬之助も加わり、慶応2年1月19日、伏見の寺田屋に投宿した。翌20日、池・新宮と共に京都に入り、薩摩屋敷に桂を訪ねた。桂は会談せずにもてなしばかりうけていたという。これは第一次征長戦後の長州処分問題が決定していなかったからだとされている。 1月19日長州10万石削減、藩主父子の隠居などの処分が決定し、朝廷へ奏聞することとなっていたので、西郷と桂会談が行われることとなったという。処分勅許という朝廷の意図が絡むので桂は薩長和解の話はせず、西郷は桂に長州処分の承認を求め、桂はこれを拒否していたと伝えられている。西郷は長州処分後、これが発端となり国内の大戦が起こるのを危惧していたが、20日にほぼ目途がついたので会談に臨んだという。 何はともあれ、龍馬が小松・西郷と桂の密談に立ち会ってようやく六か条の薩長盟約が成立したのである。 |