武田氏の家臣団と身分・役職 1.筆頭家老と「両職」 ~「甲陽軍鑑」の「しょく」~ |
「甲陽軍鑑」とは、武田遺臣が武田氏の事績を記した軍記物であり、また甲州流軍学のテキストでもある。江戸時代には、版を重ねてベストセラーになった。しかし内容には問題が多く、例えば信玄がクーデターを起こして父信虎を追放した年を間違えているなど、信頼できない部分が少なからずある。 しかし、慎重に扱えば学問上の利用に堪える個所もある。家臣同士の姻戚関係や、習俗関係の記述などはそれであるが、姻戚関係などは嘘を付いてもしょうがないという発想に基づく。問題は二つ目である。 「甲陽軍鑑」は国語学者酒井憲二氏の研究により、戦国時代の言葉、それも口語で書かれていることが明らかになっている。成立は元和7年(1621)以降であり、勝頼の遺臣がまだ多く生き残っている時代に世に出された。 習俗面において、この点で嘘を書くのは難しい。何年何月何日に武田信玄がどうこうした、という話を聞いて、それは間違いだとパッと言える人は少ないだろう。何十年も前の話を思い出すのは難しい。しかし、戦国時代の習俗の記述を眼にして、「こんな生活はしたことが無い」となれば話は別である。もちろん地方によって習俗は違うので一概には言えないし、世代交代が進めば昔の記憶は風化していく。 風化の度合いが激しいのは、多くの史料からうかがえるが、まだ元和7年である。これより先の慶長16年(1611)頃に儒医小瀬甫庵が織田信長の伝記「信長記」を世に出してベストセラーになるが、徳川家臣の大久保忠教からは「三分の一は嘘」と酷評されている。甫庵は儒教的価値観に基づいて誇張・粉飾した記述をする癖があり、忠教はそれを指摘したと思われるが、「甲陽軍鑑」は江戸初期の段階ではまだ批判対象にはなっていない。(江戸中期からは批判されるようになる)これは決して「甲陽軍鑑」が正しい記述をした裏付けではないが、同時代人にとっては受け入れやすい内容であったことは示唆しているといえる。
この増城源八郎という人物は、そのまま処罰せずにいたところ、3年たって川中島合戦の時逃げ回った。ところが自分のことを差し置いて、あまつさえ同僚の古屋惣次郎という者が臆病な行為をしたと非難した。裁判で対決したが、そこでは結局何れが正しいか明らかにならなかった。そこで鉄火を取れという話になった。信玄公が仰せられて言うには、旗本の侍が自分自身で鉄火を取るというのは、あまりに身分違いな仕置だから、両方代理人を出して、鉄火を取らせよという上意であった。そこで双方から家臣を出して、しょく衆と横目二十人衆頭4人を差し添え、八幡宮の庭で鉄火を取った。すると、増城の家臣が取り逃がした。話を聞いた信玄公は、一昨年、増城は長沼兄弟に心無い話で無理な訴訟を起こした。今回もこのようなことであるからには、諸侍への見せしめとして、雁坂峠を超えさせよと仰せ出され、二十人衆頭笠井半兵衛・三沢四郎兵衛・坂本武兵衛・相川甚五兵衛の四人の横目衆に命じられた。四人はしょくの甘利昌忠の家臣をの召連れ、増城源八郎の家を闕所処分とし、そのうえで、源八郎に雁坂峠を超えよと命じ(て騙し)、雁坂峠の側で搦め取り、諸侍へのみせしめのために逆さ磔にせよという命であった。ただし、旗本のものだから上の木戸で磔にするのはいかがと思われるので、所領で磔にせよと命じられて、鎮目というところで増城源八郎は逆さ磔となった。 「甲陽軍鑑」でも「公事之巻」と副題が付され、信玄時代の裁判の判決を集めた巻に収録されたエピソードである。事実かどうかの確定は不明だが、いかにも戦国期の相論らしい逸話が多く載せられている。 これは、増城源八郎という旗本が、同僚に臆病卑怯の振る舞いがあったと非難を繰り返したの一件の顛末である。裁判に発展したが決着がつかなかったので、信玄は鉄火による神裁を命じた。鉄火とは、熱い火を握らせて数歩先の神棚まで運ばせるという裁判のやり方で、悪事を働いていれば神罰によって火傷をし、鉄を取り落とすという考え方から生まれた過酷な裁判であった。恐怖によって無秩序な訴訟を抑止させるという側面もあったようだが、戦国時代から江戸時代初期にかけて行われた裁判の一つである。 信玄は、旗本自身に鉄火を取らすわけにはいかないと考え、双方の家臣が代理として鉄火を取ることとなった。この鉄火神裁の指揮を執ったのが「しょく衆」と横目衆である。結局、増城の家臣が、鉄火を取り損なって敗訴が確定した。その後、横目衆4人が「しょく」である甘利昌忠の部下である「しょく衆」を引き連れて増城の家の闕所処分を行い、増城自身は逆さ磔の極刑に処されたという。闕所とは所領の没収をさすが、ここでは屋敷の破壊行為を意味するものと思われる。犯罪者の屋敷を破壊するのは、中世では一般的な措置であった。
ここに「両職」甘利昌忠が「しょく」として出てくる。どうも「しょく」とは裁判に関わりがある役職のようだ。また増城の磔場所である鎮目(笛吹市)には、甘利昌忠の甥信恒が棟札を奉納しているから、「しょく」である甘利氏の知行地なのだろう。 |